性的マイノリティーの安心と幸福のかたち 法的サポートで紡ぎ出したい
東京は新宿にほど近い、東中野。駅から徒歩1分の雑居ビルにある『東中野さくら行政書士事務所』に永易至文(ながやすしぶん)さん(50)を訪ねた。 「ここから見る景色が好きなんだ」 ビルの屋上に立つ彼の先には、19歳で故郷を離れてから生活を共にし続けている東京、その新宿の街並みが灯をともし始めていた。 2016年夏、永易さんは父の33回忌で久しぶりに故郷である愛媛県・新居浜市の地に立っていた。今回の帰省は永易さんにとって特別な意味があった。久しぶりに兄弟三人が揃うことになる。帰省に先駆けて、ずっと伝えていなかった弟達に、ゲイであることを手紙でカミングアウトしていたのだった。 「結局、弟達は二人とも僕がゲイであることはとっくに知っていて、それを含めた僕の活動を応援してくれていました。末の弟なんて、僕が昔新聞に寄稿した切り抜きを大事そうにずっと財布に入れていてね」 そう話す顔に、柔和な笑いじわが走る。そしてふいに我に返る永易さん。照れ隠しなのか、慌てて「本当に、泣き真似をするのが大変でしたよ」と付け加えた。
「ドウセイアイ」という言葉
1966年、三人兄弟の長男として生を受けた。「普通の家庭に育った変わり者」と自身で称す通り、およそ子どもらしくない幼少期を送った。同級生達がテレビに熱中していた小学生の頃、少年は一人で新聞や書籍を読み漁っていた。同級生達がクラスの女子やテレビに映るアイドルタレントに対して羨望の眼差しを向けていた思春期の頃、青年は目の端でスポーツ用品店のカレンダーに映る水着の男性の姿を目で追っていた。変わった子を装うことで、その内面の欲望に気付かれないようにしていた。若きエネルギーをただ勉学にぶつけていた。足早に過ぎ去った青春の日々だった。高校卒業後、一年の浪人期間を経て大学に合格した青年は、念願の上京を果たした。
そんな彼は、ほどなくして初めて手にしたゲイ雑誌を通して、自身の欲望に言葉を与えられた__「ドウセイアイ」。その妖艶で肉感的な言葉と自分のあまりにも平凡な生との落差に、激しい拒否感が湧いた。ちょうど同時期に、同性愛者の権利やHIV/エイズへの理解を広める活動をしているという若者の団体、「アカー」(現:特定非営利活動法人動くゲイとレズビアンの会)の存在を知った。かねてより社会活動に興味を持っていた永易さんは、ここなら言葉が通じるかもしれないと団体のドアを叩いた。 「永易くんはどんな子がタイプなの~?」 しかしまだまだ不慣れな事務所の中で、活動を共にするはずの仲間から飛び出してくるオネエ言葉や恋愛談義に、田舎から出てきた若者が戸惑う日々は続き、いつしか団体からは足が遠のいた。そんなある日、永易さんのもとに一つのニュースが飛び込んでくる。1990年、府中青年の家事件の勃発だった。