<わたしたちと音楽 Vol. 45>TOMOKO IDA 世界で活躍する女性プロデューサーが増える未来のために
米ビルボードが、2007年から主催する【ビルボード・ウィメン・イン・ミュージック(WIM)】。音楽業界に多大に貢献し、その活動を通じて女性たちをエンパワーメントしたアーティストを毎年<ウーマン・オブ・ザ・イヤー>として表彰してきた。Billboard JAPANでは、2022年より、独自の観点から“音楽業界における女性”をフィーチャーした企画を発足し、その一環として女性たちにフォーカスしたインタビュー連載『わたしたちと音楽』を展開している。 今回のゲストは、国内外でも数少ない女性トラックメイカー、プロデューサーのTOMOKO IDA。2023年にはラテン界のトップ・プロデューサー、タイニーのデビュー・アルバム『DATA』の1曲目「obstáculo」を共同プロデュースし、【第66回グラミー賞】でラテン部門の<最優秀 アーバン・ミュージック・アルバム賞>にノミネートされた。日本人女性プロデューサーとして初の【グラミー賞】ノミネート作品への参加を果たした彼女に、なぜ女性のトラックメイカーはマイノリティなのか話を聞いた。
【グラミー賞】にたどり着くまでに歩んできた道
――どういった経緯でトラックメイカーになったのでしょうか。 TOMOKO IDA:私の母親が音楽教師で、私自身も6歳からピアノとダンスを習っていました。小学2、3年生のときに世の中でダンス&ボーカルグループのZOOが流行って、90’sヒップホップやニュージャックスウィングに興味を持つようになったんです。ミュージック・ビデオを見てニューヨークにも憧れて、「いつかアメリカで仕事をしたいな」と夢を膨らませていました。それから時が経ってDJとして活動をし、その数年後にはMPCというサンプラーを使って、女性2人組でユニットのビートメイカーとしてライブをするようになりました。当時女性がサンプラーでパフォーマンスするスタイルは珍しく、海外でライブをしても盛り上がったんです。就職活動の時期に一般企業に就職することも考えましたが、母から「音楽はやらないの?とプッシュされたことから、就職はせずにバイトをしながらトラック作りを続けていました。 ――MPCを扱うアーティストとしてデビューしたこともありながら、自分自身が前に出て表現するアーティストではなく、音楽プロデューサーを志したのはどうしてだったのでしょうか。 IDA:MPCのライブやDJは現場での柔軟性や瞬発力が求められますが、私はもともとモノ作りが好きで、じっくり作り上げるほうが得意。それに女性の音楽プロデューサーってあまり聞いたことがなくて、だからこそ自分はプロデューサーになってみたかった。そうして、2016年には音楽プロデューサーとして活動を始めました。