松本清張唯一の失敗作『北一輝論』二・二六事件を読み誤らせた先入観とは?
推理小説や社会派ミステリーで実力、人気とも不動の地位を築いた松本清張でしたが、作品の中にはその出来について賛否両論のあるものはもちろん存在しています。しかし、実在の人物を描いた作品で、清張が完全なる誤認識のまま書き上げてしまったのが『北一輝論』でした。綿密な取材を心がけていた清張が、なぜ間違ってしまったのでしょうか? ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。
松本清張、唯一の失敗作『北一輝論』とは?
『昭和史発掘』は1964年7月から71年4月にわたって『週刊文春』に連載されていたが、その連載がもうすぐ終わろうとしていた70年11月に、三島由紀夫と「楯の会」の青年数名が自衛隊基地に乱入して割腹自殺するという事件が起こった。『昭和史発掘』は後に全12巻の本としてまとめられたが、その内の7巻分が二・二六事件の叙述に占められていた。その二・二六事件について執筆中に三島事件が起きたのである。松本清張は事件後すぐに朝日新聞に一文を寄稿して、この事件の檄文が二・二六事件関係の文書と似ていると述べた。 松本清張には、二・二六事件そのものについてはほぼ書き尽くしたが、その事件の背景にあったとされる北一輝の思想については解明できていないという思いがあったと思われる。さらには、北一輝の思想を根底的に解明し、さらに解体しておかなければ、三島事件のような事件が再び起きて、実際にクーデターに発展するような事態になるかも知れない、という危機意識もあったと推測される。その危機意識から書かれたのが、76年に上梓された『北一輝論』であった。 この著作は73年に発表した「北一輝における『君主制』」を補筆改稿したものである。また、それよりも前の72年5月には、清張は戯曲「日本改造法案―北一輝の死―」を発表していた。 この『北一輝論』は本格的な論文によって構成された著作であったが、実は思想史の専門家や北一輝の研究家などの間ではすこぶる評判の悪い著作なのである。その評判の悪さは、清張の著作にあっては極めて珍しいと言える。ある専門家は、「松本のこの本は北研究史上の珍本といってよく、北に対する無知というしかないいいがりにみている」とまで言っている。残念ながら、たしかに『北一輝論』は清張の著作の中にあっては珍しく不出来な著作なのである。何故なのか。それは、清張が北一輝の著作を言わば成心(せいしん)、先入観を持って読んでいるからである。では、それはどういう読みだったのだろうか。まず、北一輝の思想の特徴について次に簡単に見てみたい。