松本清張唯一の失敗作『北一輝論』二・二六事件を読み誤らせた先入観とは?
右翼の中で左翼思想を持っていた北一輝
北一輝が弱冠24歳のときに書いた『國体論及び純正社会主義』は、その題目に象徴されているように、この本は右翼(國体論)の本なのか、あるいは左翼(純正社会主義)の本なのかが、判断しにくい内容である。あえて言うならば、それは国家社会主義を主張する本であった。一般には今日でも、北一輝は右翼の思想家として捉えられているが、彼自身は死ぬ直前まで自分は左翼だと思っていた可能性すらある。少なくとも北一輝自身は、自らを国家社会主義者だと考えていたであろう。 とくに、この本やその他の著作でも注意されるのは、二・二六事件の青年将校たちのように、天皇に対する崇拝心が北一輝にはなかったことで、北一輝にとっては天皇や天皇制も、国家社会主義を効果的に実現するための道具にすぎなかった。付け加えるならば、同書で「日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しゝある機関なり」と述べられているように、北一輝は一種の天皇機関説論者だったのである。彼にとって最重要なのは国家なのであって、あくまで天皇および天皇制はそれを支えるためにあるものであった。 この、彼流の国家社会主義の立場は、初期から刑死するまで変わらなかった。明治天皇や天智天皇が、同書で評価されているのも、大化の改新や明治維新という、国家の〈革命〉を成し遂げた人物だったからなのである。繰り返し言えば、北一輝にはほかの右翼たちのような、天皇に対する過剰な思い入れはなかった。
清張はなぜ北一輝の思想を読み誤ってしまったのか?
だが松本清張は、三島事件の衝撃もあったためか、北一輝の著作を天皇主義者の本として読み解こうとして、北一輝は初期においては社会民主主義者であったが、『日本改造法案大綱』を書いたときには国家主義者に変貌した、というふうな無理な解釈もしている。そして、天智天皇と明治天皇に対しての、北一輝の高い評価を過剰に重視して、それをあたかも天皇という存在への崇拝心であったかのように語るのである。松本清張は、北一輝を一般の右翼思想家と同様のファナチックな天皇主義者として捉えていたのである。しかし、それは大きな誤認であって、北一輝は一貫してクールな国家社会主義者であった。だから、二・二六事件の将校たちは刑死するとき〈天皇陛下万歳〉を叫んだのだが、北一輝は何も言わなかったのである。 ちなみに、北一輝や西田税(みつぐ)は二・二六事件にほとんど何も関わっていなく、むしろ蚊帳の外に置かれていた。にもかかわらず、その後の裁判において軍首脳は、事件の首魁(しゅかい)あるいは黒幕は軍の外の北一輝たちであって、青年将校たちは踊らされただけのように見せたのである。その方が軍の傷が小さくなるからである。 このように『北一輝論』は、失敗作であったと言わざるを得ないが、この著作からも窺われるのは、清張の、戦前のファナチックな天皇制に対する批判意識と、それが復活することに対する危機意識であった。では、清張は戦前の天皇制をどう捉えていたのか。次回のテーマとしたい。 (ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広治)