黒沢清はなぜ、『蛇の道』を自らリメイクしたのか? 26年前の復讐譚がフランスで蘇る
日常に鮮明な映像が氾濫している現代、「映画における映像」の扱い方をどうするか
―撮影や編集など、映像のルックをオリジナル版から継承している箇所も少なくありません。なぜ、今回のセルフリメイクで「あえて変えない」ことにしたのでしょうか? 黒沢:それはもう、「あれ、いいカットだったんだよな」って(笑)。オリジナルから意図的に変えたところもありますが、あえてそっくりにしたところもたくさんあるんですよね。戸惑ったのは、どれだけオリジナルと同じにしたいと欲望しても、当然まったく同じにはならないこと。主役は哀川さんじゃないし、オリジナルと左右が反転していると何か違う気がするし、似せれば似せるほど違いが際立ってくる。「基本が同じならいいか」と思ったこともありましたが、「じゃあ基本って何なんだ?」と……。 最終的には、オリジナルと比較する人なんてほとんどいないだろうし、気にすることはないんだと割り切るしかないわけです。不思議な体験であり、なんだか不健全な経験でもありましたね。「そっくりに撮りたい、そうはならない、だけどそっくりにしたい」と悶々としたので(笑)。 ―劇中に見られる「映像」に多彩な変化があることを興味深く思いました。オリジナル版にはブラウン管のテレビが登場しましたが、今回は液晶モニター。スマートフォンも出てきますし、小夜子は夫とパソコンの画面越しに会話をします。オリジナル版から25年以上を経て、映像の種類が増え、その扱い方が変わっていますね。 黒沢:液晶モニターにしたのは、ブラウン管のテレビをたくさん集めるのが大変だからです(笑)。映像に限らず、スマホやZoomなど、現在ならではの要素を物語にどう組み込むかはいつも悩みますよ。とことんリアルにやるか、架空のものをつくってしまうのか。そういえばオリジナル版には黒電話を出しましたが、当時もあんな電話はすでになかったので、完全に時代錯誤なんですよね。 この作品だけでなく、映像の扱い方はつねにひとつの課題です。現代は映像が日常に氾濫していて、かつ非常に鮮明ですよね。たとえば終盤に出てくる不気味なビデオの映像はフォーカスを完全にずらし、レトロな仕上がりにしましたが、それも相当細工をしたわけです。つまり、いまではどんなにいい加減に撮っても映像はみな鮮明になってしまいます。「乱れた映像ってないのかな?」と周りに聞いても、「どういうことですか?」と言われるくらいには、「乱れた映像」が存在しない時代なので。 映画も映像メディアのひとつである以上、そこに映る映像にはことさら敏感になりますし、メディアの変化を切り離して映画を撮るわけにはいきません。しかし、あまりにも変化のスピードが速いので処理しきれないのが実情ですね。「いまは深く考えすぎないようにしている」というのが正直なところで、いったいどうしてゆくべきかと頭を悩ませています。