「女性だからと言って特別扱いしない」。虎に翼のモデル「三淵嘉子」心に残る裁判長の一言
さらに、最高裁判所事務総局に新設された家庭局の事務官も兼任したようだ。家庭局の初代メンバーに、嘉子は「事務官」として名を連ねている。家庭局長はのちに「家庭裁判所の父」と呼ばれる宇田川潤四郎が務めた。 NHKの連続テレビ小説『虎に翼』では、この潤四郎をモデルにした人物として、滝藤賢一演じる多岐川幸四郎が登場し、異彩を放っていた。鼻下にチョビヒゲを生やしていたことや、演説が得意で何かと熱弁したことは史実どおりで、実際の潤四郎もそんなユーモラスな男だったらしい。
もっとも嘉子もムードメーカーという点では、負けていなかった。嘉子の死後に刊行された追想文集『追想のひと三淵嘉子』には、多くの関係者による嘉子との思い出が綴られている。そのなかで同僚だった八島俊夫は、嘉子の様子をこう書いている。 「和田さんは、いつも大きな風呂敷包みを持って通勤しておられました。当時、小さな子供さんをかかえての生活は大変だったようですが、そんな素振りは言葉にも態度にも何一つ現されることなく、あの可愛いえくぼのある丸ぽちゃの顔に、いつも微笑みをたたえながら、よく動いておられました」
仕事後に、最高裁家庭局のメンバーで懇親会が開かれたときにも、嘉子はよく顔を出した。干物などをあぶりながら、焼酎を分け合っては、交代で歌を歌うのがお決まりの流れだったとか。なかでも嘉子の歌は場を大いに盛り上げたという。 「和田さんは、『コロッケのうた』や『うちのパパとママ 』 (筆者注:正式名称は『モンパパ』)などうたわれましたが、皆が希望したのは、当時流行していた『リンゴの唄 』でした。本当に、リンゴのように真っ赤なほっぺをして、きれいなアルトでたのしそうにうたっておられました」(八島俊夫「りんごの歌」三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』より)
全国49カ所に家庭裁判所ができたのは、昭和24(1949)年1月1日のことである。新民法のなかで男女平等がうたわれたことで、当時の家庭裁判所には、家庭でトラブルを抱えた母親が殺到した。 「駆け込み寺」のようなカオスのなかで、相談者1人ひとりに向き合うには、潤四郎や嘉子のような明るいキャラクターが欠かせなかったことだろう。 ■女性進出を阻む男性の「必要以上のいたわり」 事務方としてそんな密度の濃い経験をした嘉子は、昭和24(1949)年8月、ついに東京地方裁判所の判事補となる。