電車のガラスを壊し、運転士に殴りかかる…「通勤地獄」に苦しむ「日本のサラリーマン」が起こした暴動の「衝撃的な様相」
通勤客たちの起こした暴動
その怒りが頂点に達したのは、1973年の労働組合の春闘の時期に発生した通称「上尾事件」、および「首都圏国電暴動事件」においてである。同年の3月11日、動労による順法闘争が展開され、ダイヤが混乱していたため、乗車できなかった乗客たちが上尾駅に大量にあふれた。いつまでたっても乗車できず、ギュウ詰めで待たされた乗客の苛立ちは頂点に達し、その一部が暴徒化する。 暴徒たちは、電車のガラス戸を破って運転席に侵入、運転士になぐりかかり、運転席や後続車両の窓ガラスをさらに破壊してまわった。さらに、駅長事務室にも乱入して、鉄道電話機類を破壊している。このとき駅長は、乗客に暴力をふるわれて病院に収容された。また、大宮駅でも同様の騒ぎが発生している。こうして、約一万人にふくれあがった乗客たちは線路を歩きはじめ、その他の駅に散らばって、そこでも駅員に抗議し、投石したとされる。切符自動販売機が壊され現金が強奪されたり、駅員に線路上を歩かせたりするなどのこぜりあいも発生している。 翌月、ふたたび順法闘争がはじまると、4月24日夜、電車、列車の遅れに腹を立てた乗客たちが暴徒となり、より大規模な暴動へ発展している。6000人があふれた赤羽駅の騒乱をきっかけとして、暴動は新宿駅などの首都圏38駅に広がった。多くの駅事務室、券売機、電車が破壊され、放火されたところもあった。暴行、窃盗、放火などで158人が逮捕、送検(そのうち106人が起訴猶予)される騒ぎとなり、翌日にかけて600万人が混乱したといわれる。 3月の上尾事件では「首都圏では乗客の怒りがついに爆発」(『朝日新聞』1973年3月14日)、4月の首都圏国電暴動事件では「「乗客パワー」爆発」「壊し、燃やし、奪う」、「乗客の怒りが爆発」と報道されている。国労や動労は、乗客たちの暴動は、右翼や当局による挑発によって扇動されたものだと主張したが、警察は偶然の重なりによって発生したものとしている。仮に扇動があったとしても、日常的に鬱積していた一般の乗客たちの強い不満と怒りがなければ、ここまで大規模に広がらなかっただろう。 この大規模な鉄道暴動のキーワードは「乗客の怒り」であった。前述のように、都市への急激な人口流入、郊外の巨大団地の造成(C)、都心の工場・会社の集中(P)、それらを管理しきれない国家・自治体(G)が重なり、「満員電車」(E)という問題が発生した。とりわけ「通勤地獄」(S)は、広い大都市に住む大量の人びとが日常的に経験・共有しうるシンボリックな問題だったからこそ、ここまで大規模な暴動へと発展したのだろう。 政治的なイデオロギーをかならずしも共有しない、一般の人びとによる正当な「怒り」だったとすれば、M・カステルが同時代に分析した社会運動の図式にきれいにあてはまるようにもみえる。 こうした観点からみると、公共交通の規範は、資本主義下の大都市で働く労働者に対して、過酷な通勤という現状を――改善するというよりも――「痩せ我慢」させるイデオロギーだったと理解することもできる。しかし、これらの鉄道暴動は「社会運動」にはなっていない。むしろ、先に触れたように、数年後にはモノ扱いに「慣れ」、「麻痺」した乗客たちの姿が報道されることになる。 労働運動であった順法闘争の対立の構図は「労働者vs.経営者」であった。考えてみると、通勤客と鉄道員は、どちらも「労働者」、あるいは「都市生活者」であるという面で共通していたはずである。つまり、両者が共闘・連帯して鉄道の「経営者」(あるいはその所有者・管理者である国家)と交渉する――いわば継続的・横断的な「社会運動」にする――可能性が理論的になかったわけではない。 たとえば、通勤客・鉄道員をふくめた労働者・都市生活者たちが、都市問題が多数発生するなかでは出勤できない、働けないから、問題が解決・改善されるまでは休むべき等と主張することもできたかもしれない。そうなれば鉄道に乗客が殺到することもなかったはずだ。だが、そうはならなかった。