電車のガラスを壊し、運転士に殴りかかる…「通勤地獄」に苦しむ「日本のサラリーマン」が起こした暴動の「衝撃的な様相」
生じた矛盾や軋轢をどう解決するか
しかし、資本主義が利潤を蓄積・拡大を追求するなかでP・C・E・Gのあいだに矛盾や軋轢が現れる。そうした矛盾や軋轢が現れる都市生活において、とりわけ困難と感じられること(S)が認識・経験されるなかで、都市問題が共有される。ただし国家・自治体は、そうした問題を画一的・一元的に管理・支配しようとする。そうした管理・支配に対抗しつつ、問題の解決・改善を志向するときに現れるのが都市の「社会運動」である。 このように考えると、通勤ラッシュの問題はさまざまな都市の要素の重なりのあいだの矛盾や軋轢として現れていることがわかる。 つまり都市への急激な人口流入によって、郊外の巨大団地の造成(C)と都心の工場・会社の集中(P)が起こり、そのあいだをつなぐ通勤電車の時間と空間の拡大するものの、ボトルネックとなり「満員電車」が発生する(E)。国家・自治体の都市計画は後手に回っており、「時差通勤」によって当座を凌ごうとするものの、うまくいかない(G)。こうしたなか、「通勤地獄」が都市生活者に共通のシンボリックな都市問題として認識される(S)。 M・カステルの議論は、当時の資本主義諸国の多くに共通するものとして提示され、さまざまな都市問題がとりあげられている。日本社会にとってはとりわけ公共交通に集約される「通勤地獄」が大きかったといえるかもしれない。 「都市問題」を改善する社会運動は、都市生活者がこうした矛盾・軋轢をどのように認識し、位置付け、政治的なプロセスに乗せるかによって左右される。鉄道に関係する交通問題は、まず鉄道の労働組合による労働運動というかたちで現れた。 とくに「国労」とよばれる国鉄労働組合(1946年発足・翌年改称)は、1951年に「動労」(国鉄動力車労働組合)、1962年に「新国労」(新国鉄労働組合連合→1968年鉄道労働組合に改称)などに分裂することになるものの、賃上げ、休日確保、職場改善などをめぐって旺盛な運動を展開していた。第2章でも触れた1949年の下山事件、三鷹事件、松川事件が人員整理に反対する国労によるものと宣伝されたこともあって勢いを失っていたものの、労働運動はまだ活発であった。 ただし、当時の国鉄の労働者は公務員であったため、ストライキ権をもたなかった。そのため、それに代わるものとして採用されたのが「順法闘争」という運動の戦術であった。これは、当該の職場に関わる法律、規程、規則を、労働者が――必要以上に――厳格に守ることによって、実質的にストライキやサボタージュをするものであった。たとえば国労が指示したのは、信号規程、ホームの安全監視、作業内規の完全励行、機関車の入出庫時間の厳守などである。こうしたことを厳密に守っていると、運行のスピードが落ち、列車が遅延し、ダイヤの混乱などが発生する。 乗客には大きな迷惑になるし、経営にも甚大な被害を与えることになる。しかし、そうした影響力によって労働組合の主張を通そうというものであった。組合の要求実現のために労働者はわざと作業を遅くしているのだが、逆にいえば、法律・規程・安全基準を大きく逸脱して無理をしなければ、大都市の通勤ラッシュはさばけなくなっていたということでもある。この順法闘争によってもっとも大きな怒りを爆発させたのは、長期間にわたって、毎日、通勤地獄に苦しんでいた乗客たちであった。