「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である
九鬼周造なら「ニセモノだ!」と叫ぶところですが、イタリアの映画人はまるでお構いなしに、当たれば官軍とばかり、自己流の西部劇をバンバン製作しました。これにより「マカロニ・ウエスタン」(英語では「スパゲティ・ウエスタン」)という新しいジャンルが生まれ、本家アメリカの西部劇とは違った魅力を持つものとして評価されるにいたるのです。 このように誤解が誤解を生んだ結果、文化が豊かになるプロセスは確かに存在する。けれども第2回の記事で指摘したとおり、ユニバーサリズムは実践の過程の中で、ほとんど宿命的にグローバリズムへと変質します。
くだんの変質はどうやって始まるか? 簡単です。普遍性に富み、ゆえに覇権的優越性を持つと見なされる特定の文化において評価されるかどうかが、個々の文化の豊かさを計るバロメーターとなるのです。もっとわかりやすく言えば、ずばりアメリカで成功を収められるかどうか。 佐藤:大谷選手も、アメリカで活躍するからこそ注目される。日本でプレーしていたら、ここまで騒がれるはずがありません。現にわが国の報道番組は、大谷選手の活躍となるや、たいがいスポーツコーナーのトップで取り上げます。それどころか政治や経済のニュースを差し置いて、番組全体のトップニュースとなることも珍しくない。しかるに自国のプロ野球はどうか。みごとに後回しではありませんか。
ユニバーサリズムの発想に立てば、グローバリズムが入り込む余地はないと考えるのが非現実的なのです。現実の社会において、文化の豊かさは「どれだけカネが動くか」という点と切り離すことができません。そしてカネは数字ですから、グローバルな通約可能性、すなわち普遍性を持っている。 古川さんは第2回の記事で、「近代日本の誤りは、西洋文化に含まれる抽象的な普遍性を、現実的な普遍性と取り違えたこと」と指摘されました。けれどもカネ、つまり貨幣は、普遍性に加えて、抽象性と現実性まで兼ね備えている。たんなる数字でありながら、世界を動かしているのですからね。