「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である
カネの前には、「抽象的な普遍性」と「現実的な普遍性」の区別が消滅してしまうのです。こうなると、両者を取り違えるという考え方自体が成り立たなくなる。やはり九鬼周造の議論は、狭義の哲学に視野を限定しないかぎり破綻を運命づけられていると言わねばなりません。 中野:個別でしか普遍が現れないのだけれど、佐藤さんがおっしゃったように、ユニバーサリズムをグローバリズムと誤解して、みんな金と数字と力のほうに流れていくと、個別が消えるだけではなく、個別の中の普遍も同時に消えてしまう。だからこそ、哲学者の九鬼周造が倫理を声高に問うているのだと思います。
佐藤:ならば大谷のプレーからも、いずれ個別性が消えてゆくのでは。ドジャーズの現在の監督デイブ・ロバーツは那覇生まれで、日本人を母に持っていますが、ベースボールに徹した采配をしているようです。ついでに事実上、実践しえない哲学をどこまで有効なものと評価すべきかは疑問ですね。 ■わかりあえないことをわかりあうという「諦念」 中野:政治的に有効かどうかと、正しいかどうかとは別問題です。政治的に支持は得られず敗北して排除されたが、排除された方の方が実は正しかったということは、当然ありえます。
ところで、九鬼周造が通約可能性に最も遠い唯名論者だというのは、やや疑わしいと思いますね。特に「日本的性格について」の最後の部分は唯名論を徹底しているわけではないように感じます。 ただ、私は九鬼が間違っているとは思っていません。個別の中に普遍性があり、抽象的なレベルでは通約可能性があるけれど、現実のレベルでは絶対にわかり合えないという諦念が必要です。神を信じる気持ちは理解できても、イスラム教徒はキリスト教徒にはなれない。この宗教対立は絶対に消えないという現実的な諦めがあります。だから不断に努力はするけれど、結局は無理だという考え方です。
古川さんの解釈は正しくて、普遍的なメタレベルで通約可能だからといって、みんながわかり合えるわけではない。ただ、絶対にわかり合えないかというと、神というレベルで抽象化すれば、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教にも共通点があり、わかり合えないけれど、お互いの存在を認め合って距離を置いて過ごすなど、幸せに共存することもできると思います。 中野:ただ、九鬼の矛盾というわけではないですが、九鬼には文化主義的な傾向がやや強いという印象はあります。個別・普遍で理解できるレベルは抽象であり、本当は理解できないこともある。それはそうですが、しかし、これは同じ文化の中にあっても個人間で起きうる話です。日本人同士でも、理解できないことがあります。この議論の行きつくところは、自分の言っていることは誰にもわかってもらえない、俺は俺でしかないんだっていう悲しい結論に至るのではないでしょうか。