「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である
佐藤:当然、そうなりますね。あらゆる理解は幻想であることに耐えねばならない。 ■「いき」とは「不可能な生き方」だ 古川:私は博士論文で、「いき」というのは実は「不可能な生き方」なのだと論じました。あらゆる意味で普遍性や相互理解の可能性を否定してしまったら、正気を保てなくなってしまいます。実際、ある意味で「いき」のモデルだった九鬼のお母さんは、孤独に耐えられず心を病んでしまったわけですし。だから、お互いにわかり合えないけれど、どこか底のところではつながっているというふうに考えないと生きていけないし、共存もできない。
中野:そうか! 実存主義的な個の考え方って「いき」なのですね。だとしたら、「いき」は、西洋にもあるな(笑)。普遍のレベルで「いき」はヨーロッパやアメリカ、中国やインドにもある。ただ、具体のレベルになると一致しない。最初は「いき」の本質を輸出・輸入できると考えていたけど、よく考えると具体のレベルでは理解し合えない。抽象度を上げればわかったふりはできるけど、具体では無理だと九鬼も感じたんじゃないんですか。
古川:完全にわかり合えるのでも、完全にわかり合えないのでも、どちらであってもわかろうとする努力をしなくなってしまいます。わかり合えることとわかり合えないこととの「あわい」のようなところを、九鬼は大事にしたのだと思います。 中野:もっと言うと、「俺たちってわかり合えないね」ってことをわかり合う(笑)。 佐藤:第2回の記事で紹介したピーター・ブルックの例がまさにそれですよ。バリ島の仮面を、現地の役者と同じ所作で使うことはできない。ただし所作が違っても、同じぐらい説得力のある形で使うことはできる。
中野:どこに違いの線があるかを明確にするということは、それ以外のところをわかり合っているということですね。「必然というのは偶然じゃないということを言っている」というのも同じことで、偶然と必然は別物じゃなく、偶然じゃないことが必然。九鬼はそういう議論を展開している。 中野:それで言うと、坂部先生の議論がなぜダメか、日本の閉鎖的なのがダメと言う人たちがなぜダメかというと、あなた方の大好きな「開かれた」というのは閉じた世界じゃない状態に過ぎない。だから、開かれたらよくて、閉じたらダメというわけじゃない。開かれるというのは閉じることがあって初めて成り立つ。開かれるためには閉じることも必要で、そのバランスが大事だということでしょう。