「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由 グローバリズム批判は「高貴ないきがり」である
裏を返して普遍性のほうに目を向けてみると、アメリカにとっては自国以外でこんなにベースボールの普遍性が発揮されるのは初めて見たと感じたのではないか。もともとベースボールは、どの国でも独自の形になるポテンシャルを持っていたのですが、アメリカで始まったことで、ベースボールの普遍性とアメリカン・ベースボールの個別性とが一致して見られていた。しかし、他国に移植されたら、ベースボールはいろんな形になって現れた。それは、各国民がみんなでベースボールの普遍性を引き出していったとも言えます。そして、ベースボールの普遍性という通約可能性があるから、WBCという世界大会も開催できるわけで。
古川:そのとおりだと思います。九鬼に則して言うと、現実の世界には「ベースボールそのもの」や「野球そのもの」というような普遍的なものは存在せず、アメリカのベースボールや日本の野球など、個別具体的なものが多様に存在する。そう考えるのがユニバーサリズムです。 他方、グローバリズムというのは、アメリカのベースボールが普遍だと考えるわけです。 中野:そうそう。アメリカのベースボールを忠実にやらないかぎり、ベースボールとは認めないという立場がグローバリズム。
施:だからアメリカが自分のところこそ「メジャーリーグ」であり、「ワールドシリーズ」であるとか言っちゃうと、まさしくグローバリズムになっちゃう(笑)。 中野:本当のワールドシリーズはWBCです(笑)。 ■「マカロニ・ウエスタン」という偉大なニセモノ 佐藤:本当にユニバーサリズムの立場に立つなら、通約可能性へのこだわりを捨てて、通約不可能性の面白さ、誤解にひそむ創造性ともいうべきものを楽しまなければならない。
いい例が黒澤明の時代劇映画です。ここにはシェイクスピア劇と並んで、西部劇の要素が取り入れられている。だから『用心棒』など、舞台となる宿場町の大通りがやけに広い。ついでにこの作品の筋立ては、アメリカの作家ダシール・ハメットのハードボイルド小説『血の収穫』を下敷きにしています。 はたせるかな、『用心棒』はセルジオ・レオーネ監督によって『荒野の用心棒』という西部劇に翻案されました。しかも『荒野の用心棒』、じつはイタリア映画。撮影はスペインで行われたものの、西部開拓というアメリカの特殊性に根ざしたものではありません。