《ブラジル記者コラム》福祉団体職員が生涯働いた老人ホームに約3千万円の遺産寄付=同団体が大戦中に邦人保護した隠された歴史
大戦中に発狂した日本移民700人が精神病院に
更に気になる記述が同議事録にはある。活動報告の部分でドナ・マルガリーダがこう語っている。当時の表記のまま記す。《先ず気狂人から申し上げますと、サンパウロにはジュケリーとピリツーバの二病院に七千人からの発狂者が収容されておりますが、その内約一割の七百人は日本人であります。救済会としましては、各発狂者毎に二人の医師の証明書を取り、会が引受人となりまして、警察に申請し、許可が下りましたところで、病院に紹介し、患者を連れて入院させております。入院費は無料でありますが、入院をさせるまでは手続きと費用を要します》(12頁) これに関して2月29日付本紙《〝ブラジル版ホロコースト〟描く=精神病院実録映画が話題に》(1)は、気になる内容だった。このドキュメンタリー作品はミナス州南部バルバセナ市の「コロニア精神病センター」で起きた患者虐待の事実を掘り起こしたもの。収容者はネズミを食べさせられたり、汚水を飲まされたり、寒さの中で放置された他、電気ショック療法などの拷問や残忍な扱いを受けたとされ、この作品によれば60~80年代に同院で6万人以上の死者を出したという。
日本人移民は基本的に聖州内の精神病院だったので場所は違う。だが、同じ国内だけに気になる部分が残る…。 更に《肺患者は現在マンダキ病院に三十五人、サン・ルイス病院に十五人、ヴィラ・マスコットは十人、ソロカバ病院は十四人、日本病院に二人、カンポス・ジョルダン療養院に三人、合計九十四人おります》、身寄りのない老人は計31人、孤児院は9人、捨て子は11人、皮膚病患者は6人と報告された。 つまり、在外公館閉鎖と外交官追放の中で、元外交官の宮腰千葉太らが中心になって日本政府からの支援費を赤十字経由で受け取り、ドナ・マルガリーダを前面に立てて本来なら総領事館がする「邦人保護業務」を戦争中にこっそり行っていたのが、救済会だった。
退職金で救済会の特集を邦字紙に出した園子さん
戦後移住が1953年から開始し、本格的な受け入れ団体として1959年1月にサンパウロ日伯援護協会が組織された。その流れで援協が社会福祉事業を扱うようになったので、救済会は老人問題にしぼって行く流れとなり、移民50周年の1958年に憩の園を設立した。この経緯は2013年12月21日付ニッケイ新聞《救済会60周年と憩の園55周年特集》(2)に詳しい。 ちなみにこの特集頁も救済会ではなく、園子さんが定年を迎えた際の退職金を使って救済会の歴史を新聞に残したいと申し出てくれ、彼女が払った。当時ニッケイ新聞とサンパウロ新聞の2紙に2頁ずつ出した。 当時の救済会会長や役員らは、園子さんと内容の打ち合わせに行ったコラム子の居る前で、「そんなことに大金を使うことはない。やめたほうが良い」と諫めていたが、園子さんは毅然と「新聞社には昔からお世話になっています。私の退職金ですから何に使おうが私の自由です」とキッパリと言い切っていたのを見て驚いた覚えがある。 園子さんは憩の園ができた1958年に、宮越千葉太氏の面接を受けて救済会で働き始めた。67年から2003年まで事務局長を務め、創立者のドナ・マルガリータの右腕として活動を補佐した。05年に理事となり14年~15年には会長を務めた。会長退任後は常任理事として支えた。 亡くなる直前に遺産の寄付を申し出て昨年分の会計に入り、憩の園がコロナ禍後に赤字転落することを天国から防いた。本田イズム救済会会長は9日の総会でそれを説明し、「彼女は人生の全てを憩の園に捧げてくれた」と感謝の言葉を述べ、文協ビル4階にある同園事務所の一室を「サーラ・ソノコ」と名付けて追悼したと報告した。「園子さんはいつもあの場所にいたから、とても良いエネルギーが満ちた場所です」と本田会長は説明した。(深) (1) HTTPS://WWW.BRASILNIPPOU.COM/2024/240229-11BRASIL.HTML (2) HTTPS://WWW.NIKKEYSHIMBUN.JP/2013/131221-E1COLONIA.HTML (3) HTTPS://WWW.BRASILNIPPOU.COM/2024/240316-21COLONIA.HTML