《ブラジル記者コラム》福祉団体職員が生涯働いた老人ホームに約3千万円の遺産寄付=同団体が大戦中に邦人保護した隠された歴史
園子さんから見せられた書類を見直していて、最も目を引いたのは2017年11月に見せられた「サンパウロ市カトリック日本人救済会改組強化に関する評議員会件総会議事録の草稿」だった。1953年3月27日午後8時から10時に、サンパウロ市ジュビテル街にあった渡辺マルガリーダ宅に33人の評議員が集まった設立総会の内容をまとめた手書きの議事録草稿だ。 いまなら総会は普通、週末の午前中に行うことが多い。忙しい仕事の合間を縫って福祉のために志のある人たちが集まるから、夜8時から総会を行う形なのだろう。 これは救済会を正式登録するための総会であり、登録のはるか以前から活動をしていた。戦中戦後は救済会しか活動できず、外交断絶によって閉鎖された総領事館の代わりに邦人保護を一手に担うというとても重要な役割を果たしていた。議事録には登録以前、戦中にどんな救済業務をしたかの報告がある。 戦争中は、産業組合や銀行以外の日系団体の活動は禁止されていたから、戦争中に何が起きたかを知る貴重な史料だと、今更ながらに園子さんが自分に見せた意味をしみじみと噛みしめた。
真珠湾攻撃から当地日本人受難の時代が開始
この設立総会までの正式名称は「サンパウロ市カトリック日本人救済会」だった。この総会でキリスト教団体の体裁をとることをやめ、多宗教を旨とする「救済会」に改名することが決議された。それまでなぜカトリック組織の体裁をとったかといえば、活動を開始した1942年4月は「敵性国人の集会」が禁止された時期だったからだ。 1941年12月8日に真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まった。米国が外交的な足場を固めるために42年1月15日~27日にリオで、南米11カ国の外相を集めた汎米外相会議を開催し、〝米国の裏庭〟である南米を引き寄せる工作を行った。そこでアルゼンチン以外、ブラジルを含む10カ国は日独伊枢軸国との外交断絶を決めた。 その会議の真っ最中の1月19日、サンパウロ州保安局は敵性国民に対する取り締まり令を出して、自国語で書かれたものの配布禁止、公衆の場での自国語使用禁止、同局の通行許可証なしの旅行や転居の禁止を交付した。 外相会議直後の1月29日には、枢軸国との国交断絶が宣言され、その在外公館閉鎖が命令された。2月2日には日本人集中地域だったセントロのコンデ・デ・サルゼダス街界隈から日本人の第1次強制立ち退き命令が出された。