《ブラジル記者コラム》福祉団体職員が生涯働いた老人ホームに約3千万円の遺産寄付=同団体が大戦中に邦人保護した隠された歴史
当時ブラジルはヴァルガス独裁政権で本来ならナチス・ドイツと親和性が高く、実際に外交関係も強かったため、ドイツは連合国に寝返ることはないと思っていたが、米国が製鉄所建設などをちらつかせて無理矢理に手繰り寄せた。 それに怒ったナチス・ドイツは、ブラジルから米国へ送られる物資補給路を断つために大西洋上のブラジルや米国艦船を次々に潜水艦攻撃で沈めた。その死者数は2月から8月までで1千人を越えたという。 この被害を補償するためにブラジル政府は2月、枢軸国側移民や企業の資産凍結令を出し、ブラ拓、海興、東山、南銀、横浜商銀などが真っ先にその標的にされ、次々に邦人がスパイ容疑で政治警察に拘束された受難の時代だった。
1942年にサンパウロ市カトリック日本人救済会創立
続々と起きた戦中の日本人拘束に対する救済として、ブラジル人医師家庭で家政婦をしながら育てられポルトガル語が達者だった渡辺トミ・マルガリーダ(以下、ドナ・マルガリーダ)を実行委員長とする「サンパウロ市カトリック日本人救済会」が生まれた。在外公館閉鎖、国外退去を命じられた石射猪太郎大使はこっそりと救済会に活動資金を託し、外交官や駐在員らは同年7月に交換船で引き上げた。 42年5月13日、大使からのお金で80着ほどのセーターを買って差入する際、収容施設で所属を訊かれたドナ・マルガリーダがとっさの機転で「カトリック婦人会」という名前を思いついた。だが、ちゃんと司教にお願いした方が良いという話になり、元外交官の宮腰千葉太、高橋勝(後にブラジル・トヨタ重役)、渡辺トミ・マルガリーダの3人は、ドン・ジョゼー・ガスパール・デ・アフォンセッカ大司教にお願いにいき、カトリック婦人会の傘下団体として認めてくれるように相談した。会議後、大司教はにこにこ笑いながら「明日大司教館の事務所に来てください」と言った。 翌日に訪ねると、婦人会ではなく「大司教館」の名で活動しなさい、教会の口座に預金することを許しますとまで言われた。こうして大司教の庇護のもと「サンパウロ市カトリック日本人救済会」は石原桂造を加えた4人が創立メンバーとなった。後から分かったことだが、実はカトリック婦人会は「戦争中のことなので引き受けできない」と断っていた。大司教は自らの責任で引き受けていた。 敵性国人が戦争中に行動できない中でも、カトリック大国ブラジルだからこそ大司教が「我が大司教館の傘下」だとお墨付きをくれたことで救済活動ができるようになった。その恩義に報いるために、1953年に正式登録する際、救済会のポルトガル語正式名称を「ASSISTÊNCIA SOCIAL DOM JOSÉ GASPAR」にした。