イエズス会とキリシタンを守るために! 宣教師たちが考えていた「長崎要塞化計画」
◇日本への関わり方について宣教師が対立 コエリョの要請に対し、フィリピンのイエズス会からは、二つの理由によって、このような軍事行動には協力できないという返答が来た。 第一に、現在のフィリピン総督には、それだけの強大な軍事力はない。第二に、フィリピンと日本との交流が進み、イエズス会以外の宣教師が日本に行くようなことになれば、イエズス会の日本のキリスト教布教の弊害となる。 この第二の理由が挙げられたのは、日本における布教活動は原則、イエズス会の独占にすることが、ヴァリニャーノ他、日本イエズス会首脳の方針だったからだ。 遣欧使節の目的の一つも、ローマ教皇にそのことを訴えるためでもあったのだ。特にヴァリニャーノは、フィリピンの宣教師が日本に行くことを禁じてほしい、という書簡を繰り返し送っていた。 しかし、1585年の段階では、キリシタン大名も、またキリスト教布教もそれほどの危機状態にあったわけではなかった。1587年、秀吉が伴天連追放令を出したことは、再びコエリョに、武力により秀吉に対抗しなければならないという意識を持たせた。 コエリョの姿勢に対してヴァリニャーノは、日本に帰国した年の1590年10月14日、イエズス会会長宛てに送っている書簡で紹介しつつ批判している(コエリョは、この年の9月に病死していた)。 ヴァリニャーノはまず、コエリョが善意からであれ、多くの過ちを犯したことを指摘する。かつて、有馬氏のようなキリシタン大名が危機に陥ったときに、コエリョは彼らを守りたいがために、秀吉に、薩摩の島津氏や肥前の龍造寺氏らを攻めるよう勧め、また、自分がキリシタン大名が団結して秀吉に味方させると約束した。 さらに、秀吉が「自分は日本を統一したあとは、明に遠征するつもりである」とコエリョに語ると、コエリョは「そのときは自分が関白を援助できる。二隻のポルトガル船を調達しよう。インド副王に交渉して援軍を送らせよう」などと申し出た。 これによって、秀吉に「この伴天連は大名を自由に動かせるほどの力を持っているのか。このような存在を許していては、かつての一向一揆のように、危険な勢力になるかもしれない」という疑いを抱かせてしまった。 「そもそもイエズス会は、日本における戦国大名間の争いに対してはできるだけ中立の立場を保ち、仮にキリシタン大名であれ、よほどの場合でない限り、武器を供与するようなことはあってはならない」 ヴァリニャーノはこう述べ、コエリョがいたずらに自己の政治力、キリシタン大名への影響力を誇示したことが、かえって秀吉にイエズス会の布教が危険な政治勢力を生み出すのではないか、という危機感を与えてしまい、結局、伴天連追放令につながっていったのだと分析した。 ◇秀吉との戦争はコエリョの独断だったのか? そして、コエリョはさらに暴走し、追放令以後、秀吉との戦争まで企画したとヴァリニャーノは批判する。 「彼は直ちに有馬に走り、有馬殿及びその他のキリスト教徒の領主達に対し、力を結集して関白殿への敵対を宣言するよう働きかけた。そして自分は金と武器、弾薬を提供して援助すると約束し、直ちに多数の火縄銃の買い入れを命じ、火薬、硝石、その他の弾薬を準備させた。そして結局、無理矢理上述の領主達をして関白殿への敵対を宣言させようとし、すんでのところで戦争が勃発するところであった」 『キリシタン宣教師の軍事計画』より しかし、有馬や小西らキリシタン大名が、この呼びかけを拒否したので、今度はフィリピンから直接スペイン軍を日本に派遣することをコエリョは求めた。 「彼は二〇〇乃至三〇〇人のスペイン兵を導入すれば、すべてのパードレが或る場所で要塞を築き、関白殿の権力に対抗して自衛出来ると考え、そこでフィリピン諸島の総督、司教、及びパードレ達に書送り、このような援軍を送ってもらいたい旨要請した」 『キリシタン宣教師の軍事計画』より ヴァリニャーノは、この要請をフィリピン総督が拒絶してくれたからよかったものの、もしも、上記いずれかの計画であれ実現していたら、秀吉の怒りを買い、日本におけるイエズス会もキリシタンも破滅的な状況に追い込まれただろうと述べ、コエリョの無謀な試みを全否定している。 しかも、1589年、当時マカオにいたヴァリニャーノのもとに、コエリョはイエズス会士ベルチョール・デ・モーラを派遣、コエリョとほぼ同じ考えを持っていたモーラは、ヴァリニャーノにコエリョの意志として、帰国する際は、二百人ほどの兵士と武器弾薬を連れてきてほしいと頼んでいる。 ヴァリニャーノは当然これを拒否、日本帰国後、武器弾薬の全てをひそかに売却処分、大砲はマカオに売却する手はずを整えた。上記の書簡は、そのあとに書かれたものである。 ここには都合の悪いことの全てを、死んだコエリョに押しつけている感はなくはない。 ヴァリニャーノ自身、窮地に陥った有馬氏を軍事的、経済的に支援することでキリシタン大名の領土を守った前例があり、1599年には「この国を征服するだけの武力を持ちたいと神に祈る」と語っていた。 ヴァリニャーノとコエリョの違いは、当時の情勢判断、特に豊臣政権の軍事力についての判断において、前者のほうが冷静だったに過ぎないという解釈もありうるだろう。 この軍事計画のすべてを、コエリョが独断でおこない、実践したというのはあまりも不自然である。例えばフロイスは、1589年1月30日、イエズス会本部に向けて、この地域でイエズス会とキリシタンを維持するためには、日本に堅固な要塞を築き、迫害が起きたらそこに逃れることができるようにする必要があり、同時にその要塞を守る兵士が必要だと書き送っている。 これは、実際には長崎を要塞化する計画であった。そしてフロイスは、少しの例外を除き司祭たちはほぼ同意見だと述べている。 モーラがヴァリニャーノに援軍を率いて日本に戻るよう求めたのは、最も親日的なオルガンティーノ司祭以外のほぼ全員の意志だったようだ。ヴァリニャーノとしては、このような無謀な試みを今後なくすためにも、この意見をコエリョ個人のものとして消してしまうしかなかったのかもしれない。 イエズス会が組織として、この時期に日本への侵略や軍事作戦を考えていたわけではない。スペイン国王、フィリピン総督、そして当区の布教責任者であるヴァリニャーノも、いずれもそのような試みには反対だった。 しかし、それは武力による征服を否定するものではなかった。 当時のスペインやポルトガルの軍事力では、日本や中国大陸への戦争を仕掛けるだけの力量はないという客観的な分析、また、スペイン軍の行動が、日本にイエズス会以外のスペイン系の修道士会流入を同時にもたらすことへの警戒心などの戦術的な面が、この選択を取らせなかったのである。 これは筆者の見解だが、秀吉がキリシタンを警戒するようになったのは、コエリョの態度のうちに、朝鮮・明国への遠征に対し、秀吉への協力を申し出るように見えて、豊臣政権と軍事的に一体化することで、キリシタンの勢力をさらに伸ばし、場合によっては朝鮮や明国に対しての布教のために、秀吉軍をも利用しようとしているかのような姿勢を見出したからではないか。 秀吉をはじめ、戦国乱世を生きた武将であれば皆、そのように他国の軍隊を利用して領地を拡大してきたのである。そして、そのような「同盟者」は、いつ裏切るかもしれぬ存在であることも自明の理であった。
三浦 小太郎