江戸時代に盛んだった樽丸林業とは? 年間100万個の酒樽に加工された「吉野杉」
年間100万個の酒樽(さかだる)に使われた杉材
産業として吉野林業が確立したのは、江戸時代中期、1700年ごろと見られる。というのは、この時期に灘をはじめとする摂津・和泉地域(現在の兵庫県南東部と大阪府)の酒造業が、江戸へと販路を広げて勃興。特に酒樽専用の樽廻船が大阪湾岸地域と江戸間を就航するようになると、江戸で消費される酒の9割が上方産の「下り酒」となった。 そして、その酒を運搬するための四斗樽の素材として使われたのが、吉野杉であった。その樽の数は、最盛期には年間100万個にも及び、用材の量を現在で換算すると、奈良県の年間の原木生産量にも匹敵すると推測される。 もともと吉野の杉は、真っ直ぐで節が少なく、年輪の間隔が詰まって丈夫であり、優れた建築材であることで知られた。それが、酒を漏らさない樽の素材として最適であり、また、酒の色を変色させることなく、適度に木の香りが移ることも好評であった。 その吉野杉の特徴は、本来、地域の気候や土壌、環境に基づく天然林のものであったが、伐採後に新たに植林する際にも、人工林で再現できるように図られた。その吉野林業独自の方法が「密植」であった。 一般的な植林の場合、1ヘクタールに3000本程度の苗木を植えるが、現在も吉野で引き継がれる「密植林業」では、それよりも樹間を狭めて10000本前後もの苗木を植える。これによって木を太りにくくし、年輪の間隔を緻密にして堅牢な木材とするのである。 また、植林後、木の成長にあわせて間伐を数多く繰り返すことを特徴とし、間伐材の売却をもって林業の運営に充当する。植林から約100年後の最終段階では、選抜された300本から500本の木となる。 建築に用いる材木は、切り倒したのち原木のまま、杉の場合は半年ほど放置して「葉枯らし」を行ない、水分を減らしたのちに山から下ろされ、吉野川で筏(いかだ)に組んだのちに和歌山方面へと川を下って運ばれた。 一方、酒樽用の杉材は大きさが決まっていることから、伐採した山中で板に加工されたのち、井形に積み上げて乾燥させ、その後、板を丸く束ねた「樽丸」とし、これを背負って山から下ろして丸太の筏に載せ、出荷したという。戦前まで樽材が大きな比重を占めていたことから、吉野林業を「樽丸林業」とも呼んだ。