音楽の授業は楽しかったですか?『ちいかわ』の劇伴も手掛けるトクマルシューゴが音楽教育を語りまくる
「なぜ音楽の時間が苦手になっちゃう子が現れるのか?」から始まった研究は、芸術・音楽とは何か?という問いへ
ー「なぜ音楽の時間が苦手になっちゃう子が現れるのか?」について、まずはどこから研究を始めたのでしょうか? トクマル:全部を話そうとするとすごく長くなっちゃうんですけど……そもそも明治維新が19世紀半ばころにあって、「教育」というものを国が始めたときに何が起きたのかをまず明確にしようと思いました。日本の音楽教育というか、もっと大きな枠でくくると「芸術教育」ですね。 それをもっと分類すると、芸術とは何か? 教育とは何か? 芸術教育とは何か? ということになる。それでまずは「芸術とはなんだろう?」と考えるわけですけど、そもそも芸術とはどういうものかを再認識しておく必要があると思って、分析美学と芸術哲学という学問の知恵をお借りしています。それと、僕は「芸術の時間」として7つに分類しています。 ーその7つというのは? トクマル:模倣、創造、共有、発見、経験、環境設定、適合です。 「環境設定」というのは、カメラマンの人だったらカメラを買う、フィルムを現像する場所をつくる、音楽の授業で言えば、音楽室をつくることも環境設定の一つです。 「適合」に関しては「自分なり」という言葉がキーワードになってくるんですけど、「自由に絵を描いてください」と言われたときに、適当に描いたものと、「いいのができたな」と思ってできたものとは、同じ「創造」だとしても、ちょっと違うものだったりしますよね。例えば、ピカソにも失敗作がいっぱいあって、それはピカソにとっては適合してない作品。適合をして、初めてそれが完成したものだと思えるわけです。 ーなるほど。 トクマル:じゃあ、何で僕がこうやって分類したのかというと、例えば、「お花の絵を描いてみよう」という時間があったとして、できたものを見て保育者たちは「上手に描けたね」とか「ユニークなのができたね」とか、いろんな言い方をしたり、評価をしたりするわけですけど、「お花の絵を描いてみよう」という言葉が、子どもたちに何を求めているのかという問題になってくるんです。 これが「模倣」として技術を学ぶ時間であれば、保育者はその技術の面白さや魅力を伝えられるようにしたいですよね。技術力には差も出てくるので「もうやりたくない」につながらないよう留意も必要です。一方で、もしこれが「自由に表現してみよう」という意味の時間なのであれば、「上手に描けたね」という声かけではディスコミュニケーションになってしまうような、多様な「創造」の絵が生まれてきます。 さらに、自由に描く時間なのに「〇〇ちゃんの絵は特にすごいね!」と褒め称える場合、近くで見ていた子は「あれ? 自分の絵はダメなのか」という残念な気持ちになってしまうこともあります。そこで「じゃあ次はもっとこうしよう!」と思えるならいいのですが、なかなか難しい。いいものが描けても描けなくても、描くことに対して苦手意識が芽生えてしまうような状況はできる限り避けたい。そこで「適合」という考え方が重要になってきます。 ー芸術という大枠のなかの何を目的としているのか明確にする必要があると。 トクマル:リコーダーで言えば、「この音符通りに正確に吹きましょう」というのは模倣の時間であり、技術習得の時間でもあるんですね。カメラで言えば、「フォーカスを合わせる」ということがそう。「これができればより良くなる」というのがわかったり、「逆にこれを外れることで、面白いものができるかもしれない」というようなことが明確じゃないと、自分はなんのためにこれをやっているのかがわからなくて、「つまらない」とか「苦手」と感じてしまうと思うんです。