サッカー日本代表を救った前園、中田、そして「日清ラ王」!?90年代を席捲した生タイプめんの技術革新、1992年9月21日発売【食品産業あの日あの時】
1992年9月21日、「日清ラ王」はまず関東甲信越地区で発売。10月12日からは北海道、静岡でも販売が開始された。当初のCMに起用されたのは“浪速のロッキー”こと俳優の赤井英和(当時33歳)と金山一彦(当時25歳)だった。初年度の年間売上計画は150億円とされたが、1993年2月にはその目標を前倒しで達成。同年には「シーフード」「とんこつ」が加わり、販路も全国へと広がった。ピーク時の1993年度には1億5360万個を販売(asahi.com 2010年8月16日付記事より)、同じ技術を活用したうどん「日清のごんぶと」(1993年)、スパゲッティ「日清Spa王」(1995年)も登場した。
この結果カップ入り生タイプめんの市場は急伸し、1995年にはインスタント麺の総生産量(51億9000万食。一般社団法人 日本即席食品工業協会)の1割近い4億8400万食(同)を占めるまでにまで成長していた。こうした流れを受けて企画されたのが、冒頭で紹介した前園と中田のCMだった。日清食品はアトランタ・オリンピックの開催される夏に合わせ、二人の写真をあしらったTシャツが当たる「ラ王へ行こう」キャンペーンを展開。同社の狙い通り前園、中田は同年、サッカーU-23日本代表の主力として活躍し、ブラジルを破る“マイアミの奇跡”に貢献した。
実はこの前園のCM起用が、サッカー日本代表を“救った”ことがある。“マイアミの奇跡”後の同年12月にUAEで開催されたAFCアジアカップ1996での出来事だ。当時の代表チームはまだワールドカップ出場経験もなく、海外遠征時のサポート体制も不十分だった。「サッカーニッポン代表のすべらない話」(夏海樹良、ベースボール・マガジン社)によれば、このUAE遠征に際して日清食品は前園に大量の「日清ラ王」を提供。
アウェーの地の慣れない食事に閉口していた選手たちは夕食後、前園の部屋に直行し「日清ラ王」を奪い合うように食したという。遠征に参加した名波浩(当時ジュビロ磐田)も後年、「食事はつらかった。ゾノ(前園)に送られてきた『ラ王』でなんとかしのげた。本当にそのくらいつらかった」と振り返っている。この反省が活かされ、日本が初出場した1998年のワールドカップ・フランス大会からはアウェーの試合すべてに日本人シェフが帯同するようになった。
2000年代に入るとノンフライ麺の品質が向上し、生タイプめんの優位性は次第に薄れてゆく。日清食品の技術が高すぎたため他社が追随できず、「日清ラ王」に迫る他社製品が生まれなかったとの評もある。2010年、生タイプめんの「日清ラ王」は惜しまれつつ終売ののち、「3層太ストレート製法」を採用した次世代ノンフライ麺にリニューアルして再登場した。昨今は袋麺にも注力しており、今年3月には袋麺では一般的な5食パックを廃止し、3食パックに全面的に切り替えたことでも話題を呼んだ。変わることなく変わり続けることが、市場を創ったブランドの宿命なのかもしれない。 【岸田林(きしだ・りん)】
食品産業新聞社
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