開演1時間前の“ドタキャン騒動”大バッシングの風向きを変えた、沢田研二とファンの「関係」
ゆっくりと坂を下りていくジュリーの哀愁
確かに沢田研二のツアーは公演回数がとても多い。さいたまスーパーアリーナも、7,000人分は売れているのである。決して不人気ではないのだ。普通に考えれば、そのまま開催したほうがダメージは少なかったはず。沢田研二は誰からも批難されないし、かなりの空席が出るほどチケットが売れなかったことも、コンサートに訪れたファン以外は気づくことがなく、さほど騒がれることはなかっただろう。 けれど、彼はキャンセルを選んだ。ファンだけでなく、自分にも大変リスキーな選択をしたように見えるが、だからこそ、良し悪しは別として、満席の中で歌うことにこだわる大スターのすさまじいプライドと覚悟を見せつける結果にもなったのだ。もちろん、この5年後にリベンジが成功したから前向きに思い出せるのではあるが。 沢田研二は翌10月18日、自宅前に集まった報道陣を横浜市内の公園に移動させ、そこで謝罪会見を行った。これはニュースでも流れ、久々にテレビで沢田研二の姿を見たという人も多かったようである。 大嫌いなマスコミの前に自ら出て正装で釈明、謝罪をすることを選んだことで、彼にとっても、キャンセルという決断が断腸の思いであったことが伝わってくる。 「僕にさいたまスーパーアリーナでやる実力がなかった。本当に申し訳なく思っています」 「ファンの方たちには甘えさせてもらっているのかもしれないけれども、初めて僕のコンサートを見に来られた方もたくさんいらっしゃると思うので、そういう方たちには本当に申し訳なかった」 「僕はやるのが目的ではない。いっぱいの観客の中で歌うのが目的と。やるならいっぱいにしてくれ、それが無理なら僕はやりませんと。そりゃ無理だというのなら断ってくれといつも言っている」 この直接の謝罪があるとないとでは、大きく印象が違っただろう。対面での謝罪は、表情や声からさまざまなことが伝わる。スポーツ報知ウェブサイト内のコラム「コラムでHO!」に掲載された記事(2018年12月21日配信)では、最初こそ「呆れた」としていた記者が、その27分間の会見を振り返り、感想をこう記している。 「録音したレコーダーを聞き返すと、弱々しいジュリーの声にはファンへの申し訳なさと自身の信念がにじみ出ている。会見を終え、ゆっくりと坂を下りていくジュリーの哀愁漂う背中は今でも忘れられない」 そして、ドタキャンから3日後に開催された10月21日の大阪狭山市SAYAKAホールで、沢田研二は冒頭のMCにて、改めてドタキャンに触れ「沢田研二の実力不足です」と謝罪しながら、次のような言葉でリベンジ宣言をしたのである。 「自分は厄介な人間です。あの日僕は立ち止まりました。神経が違和感を覚え、心が揺れ、体幹が大きくブレました。今回も僕の行動により、さいたまスーパーアリーナにお越しいただいたお客様に不快な思いをさせたのは事実です。これはすべて決断を下した沢田研二の責任です。(中略)僕は旗を揚げました。それは白旗ではありません。情熱の赤い旗です。もう一度さいたまスーパーアリーナの客席を満杯にするという新しい目標ができたことを嬉しく思っています。(中略)ここを新たな出発にして、これをモチベーションに、あと10年はやりたいです」 「席が埋まらなかった」という、アーティストにとって屈辱的な現状も含め、自分の言葉で説明、謝罪。さらに間を空けず、すぐにリベンジを大切な人(ファン)に宣言する。 「情熱の赤い旗」という言葉も、「ファンとの約束を忘れない」という意思表明の役割を果たすのに、非常に有効なキーワードとなった。 そして何よりも、「これをモチベーションに10年続ける」という、さらなる長い活動を約束する。これはどれだけ、ファンにとって頼もしい言葉だっただろう。 失敗をしたら、その再挑戦を次の目標にする。しかもすぐに。そうすることで、ネガティブな出来事は、一瞬にして、自身を駆り立てるモチベーションとなる。応援してくれる人のテンションも上げる。失敗が許されず、やり直しがきかないと思わされている今の時代、なんとも明るい切り替え方に気付かせてもらった気がする。 そういえば、彼は1985年のインタビューでも、こう答えていた。 「いつだって修正可能の人生だもの」(前掲『コスモポリタン』1985年12月20日号) 人生は、そう簡単に詰まないのだ。