「森」がお墓になる。あなたの命で木々が育つ、''循環葬''という新たな選択肢
── どうして墓標を残さないのですか? それについては、最後までお寺さんと議論をしたところです。 墓標はその人が生きた証でもあると思いますが、私たちが何よりも大切にしたいのは、人と森の共生です。人だけを中心に考えるのではなくて、森を含めたこの地球に生きる私たちを主語として考えていきたい。私は森が好きなので、それをありのままの姿で残したいし、そこに人の功績や痕跡を残すための墓標はなくてもいいんじゃないかと考えました。 住職も副住職も、ご自身の宗教の枠組みを超えて墓標のあり方を考えてくださり、お互いの意見が一致したところで、それを無くすことにしました。
小池さんから循環葬のお話をいただいたとき、私どもも妙見山の森を残すための活動をどう進めていくか考えていたところでもあり、とても興味深いご提案だと感じました。 しかしながら、いち僧侶として、墓標をつくるのは当たり前のことだと考えていたところがあり、それをなくしていいものなのだろうか、というのは、そのときの自分だけでは判断ができませんでした。 そこで、この地域の歴史にお詳しい信徒の総代さんや地元の方々にもお話をお聞きしましたところ、それは「埋け墓(いけばか)でんな~」とおっしゃられて。 「埋け墓」というのは、この地域の方言で、いわゆる土葬のことです。この「埋け墓」自体には墓標がなく、お参りをするための墓標は「参り墓」として別につくる。「参り墓」は純粋にお参りをするためだけにあり、そこにお骨は埋まっていない。そういう葬送のかたちが、特に関西地域では多く見られたということがわかりました。 私自身もいろいろと調べたのですが、墓標とお骨が一体となっているお墓のかたちが庶民に広がったのは明治時代以降でして、それが大きく広がったのは戦後の高度経済成長期から。つまり、私たちがよく知っているお墓のかたちは、歴史的にそれほど古いものではなかったということです。 むしろ循環葬の方がこの地域の伝統に近いかたちであったというところで、お寺全体としても腹に落ちましたし、森の保全にもつながることから、ぜひ一緒にやりましょうとお応えをした次第でございます。