朝鮮人労働者の追悼碑、県が撤去した根拠は「後出し」だった? 議会も「全会一致」で採択したはずが…13年後に態度が一変
群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に建つ朝鮮人労働者の追悼碑。戦時中に動員された朝鮮人労働者の追悼を目的に建立された。市民団体が2001年に群馬県議会に請願し、自民党を含む全会一致で趣旨採択され、市民団体が県の許可を得て設置していた。 【写真】朝鮮人追悼碑の撤去工事終了 2月
ところが、2014年になって県と議会の態度は一変する。保守系団体などが、追悼碑の許可取り消しを求める請願を県議会に提出したところ、賛成多数で採択された。ほどなくして、群馬県も不許可にする。そして今年に入り、群馬県は追悼碑をついに撤去した。 ただ、分かりにくいのは群馬県が不許可にした理由だ。市民団体が毎年開く式典で「政治的行事を行った」から不許可にするという。 確かに、群馬県はもともと許可した際にこんな条件を付けていた。 「宗教的・政治的行事および管理は一切行わない」 では、政治的行事とは何か。群馬県は、式典で市民団体が「強制連行」に触れる発言をしたことを問題視した。どういうことなのか。そして追悼碑を巡って一体何が起きていたのか。(共同通信=重冨文紀) ▽戦時中に政府主導で労務動員 まずは戦時中の朝鮮人労働者の移入について振り返ってみたい。日中戦争から太平洋戦争中の労務動員について幅広い資料から検証した東京大の外村大教授(日本近代史)の著書「朝鮮人強制連行」によると、概要はこうだ。
日本政府は出兵などによる労働力減少を補うため、1939年から炭鉱や工場への労務動員を計画し実施した。朝鮮は当時、日本の植民地だ。動員形態は三つに分けられる。 (1)企業が行政機関の協力を得て実施した「募集」 (2)行政当局の主導性が強まった「官斡旋(かんあっせん)」 (3)法的な強制力が伴う「徴用」 多くの人は過酷な労働を強いられた。戦況の悪化とともに動員計画もふくれあがり、戦争末期まで続いた。 そして、強制性を示す証拠はさまざまな形で残されている。日本の国策を背景に、現地では警官や労務補導員が各家を訪問し動員。実際に労働者は「おまえらが行かなければ親兄弟を皆殺しにする」と警官や役人から脅されたと証言(朝鮮人強制連行真相調査団「朝鮮人強制連行調査の記録 中国編」、2001年)。日本政府側の朝鮮総督府職員も動員について「仕方なく半強制的にやっています」と発言している(東洋新報社主催の座談会で、1943年)。さらには、徴用を忌避する住民には親類などから代わりを送り出すよう指示した記録も確認されている(朝鮮総督府「徴用忌避防遏取締指導要綱」、1945年)。