朝鮮人労働者の追悼碑、県が撤去した根拠は「後出し」だった? 議会も「全会一致」で採択したはずが…13年後に態度が一変
こうした点を踏まえて、外村教授は強制性を指摘している。 「経済的な事情から希望して来日する労働者も中にはいたが、何らかの意味での強制力をもつ日本国家の政策的関与のもと動員されたというべきだ」 旧大蔵省の統計によると、1939~45年の計画に基づき、約72万人の朝鮮人が内地や樺太、南洋諸島に動員された。政府は戦後、動員された中国人の氏名や労務先の企業名などを調査しているが、朝鮮人についてはこれらの詳しい実態調査を行っていない。 ▽朝鮮人追悼、自民党含む全会一致での採択 このような歴史的背景を踏まえ、群馬県の追悼碑の経緯を確認したい。 発端は2001年。動員された朝鮮人労働者の追悼を目的に、市民団体が群馬県議会に追悼碑建立の請願を行い、自民党を含む全会一致で趣旨採択された。 市民団体側は、設置場所として旧陸軍の岩鼻火薬製造所の跡地である群馬の森を要望した。菊池実著「近代日本の戦争遺跡研究」によると、少なくとも約4600人の朝鮮人が県内でも動員され、沼田市の火薬製造地下工場などで働いた。群馬の森で朝鮮人が働いていたかは定かではないが、火薬工場があった縁で選んだ。
群馬県は市民団体に対し、「宗教的・政治的行事および管理は一切行わない」との条件を付けて許可。市民団体は570万円をかけ、2004年に設置した。 群馬県や市民団体によると、「政治的行事」に該当する行為について、両者の間で具体的な説明や取り決めはなかった。 碑文は群馬県や外務省とも協議して決めた。「過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止める」とした小泉政権下の日朝平壌宣言(2002年)なども踏まえたという。市民団体側は当初、「強制連行」との文言を盛り込む考えだったが、県が難色を示し、「労務動員による朝鮮人犠牲者を追悼する」との表現になった。日本語とハングルで記した。 ちなみに、日本政府は2021年4月、朝鮮半島からの労働者についてこんな答弁書を閣議決定している。「移入の経緯はさまざまであり、『強制連行された』とひとくくりに表現することは適切ではない」「『徴用』を用いることが適切」。碑文と政府答弁とは、少なくとも矛盾しない形だ。