織田信長が「鉄砲の量産化」で実現した“戦場のイノベーション” 最大の貿易港と主要な鉄砲生産地を掌握、火薬と弾丸を安定的に調達するリスクマネジメントも【投資の日本史】
上洛後「全国一の鉄砲生産地・堺」を直轄地化した
織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのは永禄11年(1568年)9月のこと。それから1年余で畿内隣国をあらかた平定するが、その中には自治都市の堺も含まれていた。 堺は摂津・河内・和泉の3国の境に位置し、どの戦国大名にも属さず、有力商人からなる会合衆により運営されていた。町全体を南・北・東の三方に堀を構え、多数の浪人を雇っていたから、都周辺の戦国大名は堺と手を組むことはあっても敵に回すことは避けていた。 ところが信長には交渉も譲歩もする考えはなく、挨拶代わりとでも言わんばかりに、矢銭(軍費名目の献金)として2万貫(約30億円相当)を供出することと、自己への服属を要求した。最初は一致拒絶した会合衆だが、孤立無援の状況では要求を受け入れるしかなく、堺は信長の直轄地に組み込まれた。 信長が強硬姿勢を貫いた理由は2つある。1つは堺が、九州の長崎と豊後府内を除けば、日本最大の貿易港を備えていたこと、もう1つは全国一の鉄砲の生産地であったことによる。 堺と前後して、信長は同じく鉄砲生産地として知られた近江の国友や日野、紀伊の根來も掌握。主だった武器商人をも統制下に置いていたから、信長は鉄砲の確保において圧倒的に有利な立場に立つこととなった。
同じことは消耗品である火薬と弾丸についても当てはまる。戦国時代の火薬と弾丸に対して現代科学のメスを入れたのは、分析科学を専門とする元別府大学教授の平尾良光(帝京大学客員教授)だ。 まず2010年には中世史を専門とする飯沼賢司との共同執筆した論文「大航海時代における東アジア世界と日本の鉛流通の意義-鉛同位体比をもちいた分析科学と歴史学のコラボレーション-」(別府大学文化財研究所ほか編『キリシタン大名の考古学』所収。思文閣出版)において、16世紀後半から17世紀前半にかけ、大量の鉛が東南アジア(タイ)から日本に、同じく硝石が中国から流入したことを明らかにした。 2012年3月にまとめた報告書「鉛同位体比法を用いた東アジア世界における金属の流通に関する歴史的研究」は2014年刊行の『大航海時代の日本と金属交易』(思文閣出版)に収められたが、その中で平尾は長篠合戦古戦場跡で確認された鉄砲玉に関する分析結果をもとに、〈信長は外国産の鉛と火薬を偶然ではなく、意図して導入していたことを示唆する。(中略)反面、武田側では鉛を生産できたとしても、火薬の入手がかなり困難だったのではないだろうか〉との推測を披歴している。 長篠合戦時に織田軍の使用した火薬と弾丸が良質な外国産であったのに対し、武田軍の弾丸は国産鉛からなるものが多く、織田軍が火薬と弾丸の質量両面で圧倒的に有利にあったことが、鉄砲玉の分析からも明らかとなった。 平尾の研究成果が発表されてから、長篠合戦について語る際、鉄砲の数ではなく弾薬の数、物量の差について言及しないわけにはいかなくなった。 戦国武田氏研究の第一人者として知られる歴史学者の平山優もその著作『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)に中で、〈恐らく、長篠合戦で、武田軍は、織田軍鉄炮衆に銃数だけでなく、豊富に用意された玉薬に圧倒され、まったく途切れることのない弾幕にさらされ、敗退したのだろう。逆に、武田軍鉄炮衆は、早い段階で、弾切れとなり、沈黙を余儀なくされたとみられる〉と述べ、長篠合戦は〈新戦法対旧戦法〉の衝突ではなく、〈物量の差という側面こそを重視すべき〉と結論している(引用文中の「鉄炮」は当時の表記。以下同)。
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