織田信長が「鉄砲の量産化」で実現した“戦場のイノベーション” 最大の貿易港と主要な鉄砲生産地を掌握、火薬と弾丸を安定的に調達するリスクマネジメントも【投資の日本史】
弾薬の原料「鉛と硝石」はイエズス会を保護して安定調達
最大の貿易港と主要な鉄砲生産地を掌握したことで、他の戦国大名に対する信長の有利ははっきりとしたが、鉛と硝石の輸入が途絶えれば元も子もなくなる。日本への寄港を許されている南蛮船はポルトガル船だけで、必ず同乗しているイエズス会宣教師が営業の役割を果たし、戦国大名たちの目にはキリスト教の布教と貿易はセットと映っていた。 そのため九州の戦国大名には入信してキリシタン大名になる者も出る。信長自身は入信こそしなかったが、布教のために命がけの航海を重ね、各人が幅広い教養を持つ宣教師に対して敬意を抱いていた。京都在住や京都での教会建設を許可しただけでなく、自身の直轄地でも布教活動をすることを許した。 ポルトガルとの貿易を円滑に進め、鉄砲(火薬と弾丸)の原料を安定的に調達するリスクマネジメントには、イエズス会を保護するのが得策と判断したわけだが、それだけが目的ではなさそうだ。比叡山延暦寺や一向一揆に頭を悩ましていた信長にすれば、キリスト教に対する優遇措置は寺社勢力への当てつけ、もしくは寺社勢力の力を削ぐのに有効と考えていた可能性がある。 それでは、信長による南蛮文化の受け入れが、貿易を円滑に進めるためのパフォーマンスだったかといえば、そうとも言いきれない。信長が南蛮菓子のコンフェイト(金平糖)を大いに気に入り、何度も取り寄せたこと、西洋のマントを愛用したことは事実なので、嗜好に合うものに関して全面的に受け入れていた。
鉄砲の伝来から始まった戦国日本の「軍事革命」
慶長11年(1606年)に種子島の領主からの依頼のもと、薩摩の僧侶により編纂された歴史書『鉄砲記』によれば、鉄砲伝来の地は鹿児島県大隅半島の南に浮かぶ種子島で、時に天文12年(1543年)のことだった。 種子島の領主は漂着した南蛮商人から鉄砲2丁を購入。そのうち1丁は紀伊根來寺から千里を遠しとせずやって来た杉の坊という者に譲り、もう1丁は国産化の手本とした。国産化に成功してほどなく、堺から橘屋又三郎という商人がやって来て、2年間島に居続けて鉄砲の作り方から火薬の製法、射撃の方法まで習得したうえで堺に戻ったという。 また『鉄砲記』より後の成立だが、2丁のうち1丁は津家を通じて室町幕府の12代将軍足利義晴に献上され、義晴が刀鍛冶で名高い近江国友に複製の製造を依頼したことをきっかけに、都の周辺でも鉄砲の製造が盛んになったとする史料もある。 どれが史実かの判別はつかないが、鉄砲の伝来から、鉄砲が戦場の勝敗を左右するまでに数十年の歳月を要したことが見て取れる。その理由に関しては、近世国家成立史を専門とする藤田達生(三重大学特任教授)が著書『戦国日本の軍事革命 鉄炮が一変させた戦場と統治』(中公新書)の中で提示した「鉄炮導入の三段階」がヒントになりそうだ。 同書によれば、「鉄炮導入の三段階」とは、 【その一】高価な貴重品で狩猟や限定的な戦闘にしか使用されず、贈答品だった段階 【その二】鉄砲隊の成立に伴い、戦術に変化がみられる段階 【その三】大砲戦が本格化し、徳川家康による国家再統一が完成した段階 に分けられる。 つまり、第1段階では鉄砲の威力を最大限引き出せる戦い方が確立されておらず、鉄砲生産の一大拠点にして日本最大の物流拠点でもある堺を織田信長が掌握したことで、ようやく鉄砲の導入は第2段階に移行することができた。 鉄砲はもとより、弾薬の原料となる硝石と鉛を買い占めることが可能な財力を有することに加え、信長は稀代のアイデアマンでもあった。連射ができない点は弓隊とのコンビネーションでカバー、防水には藁と油紙を使用。さらに百丁、千丁単位の鉄砲隊を設け、十分な訓練を施すことで、戦場全体の様相が大きく変わった。 鉄砲玉の直撃を防ぐ竹束の準備は必須となり、戦場で馬上にあるのは好んで標的になるだけのため騎兵による突撃はすっかり減り、馬はもっぱら移動手段と化した。さらには同じく火器の大砲の登場もあわさって、戦闘時間の大幅に短縮されることとなった。 当時の砲弾はまだ炸裂するタイプではないが、それでも破壊力は凄まじい。これと鉄砲隊による一斉射撃をあわされば、弓槍刀が相手なら頑強に抵抗し続けることができた敵も早々に敗走せざるを得ない。寄せ手を阻み続けた堅固な砦も、瓦礫の山と化すまでさして日数がかからず、降伏するのであれば従来とは比べ物にならない早い段階で決断を下さねばならなくなった。
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