「人が押す鉄道」はなぜ生まれ、なぜ消えていったのか 豆相人車鉄道の歴史
人件費がかさんで思うように利益上がらず
こうして1895年7月に熱海-吉浜間、翌1896年3月に小田原(現在の早川口)までの全線約25キロが開通した豆相人車鉄道であったが、実際に営業してみると、車夫の人件費がかさんで思うように利益が上がらず、1907年12月には動力変更(蒸気)し、前述の軽便鉄道になった。 この人車鉄道から軽便鉄道への切り替え工事の様子を8歳の少年の視点で描いたのが、芥川龍之介の短編『トロッコ』である。 人車時代に熱海-小田原間はおよそ3時間半かかっていたが、軽便になると約2時間半に短縮された。その後は1922年12月に熱海線(現在の東海道線)の小田原-真鶴間が開業すると並行区間が廃止され、真鶴-熱海間のみの運行となった。 そして、1923年9月の関東大震災で壊滅的な被害を受けると、既に将来性を失っていたことから復旧されることなく、翌1924年3月に全線廃止された。 人車時代の旅はどのようなものだったのか。その様子は、明治の文豪・国木田独歩の短編『湯ヶ原ゆき』によく描かれている。同作は主人公(独歩)が「親類の義母(おっかさん)」とともに、結核療養のために湯河原へ向かった道中の体験を元にした紀行文的な作品である。 『湯ヶ原ゆき』の中で独歩は、小田原駅を発車した人車の様子を「先ず二台の三等車、次に二等車が一台、此三台が一列になってゴロゴロと停車場を出て、暫時(しばら)くは小田原の場末の家並の間を上には人が押し下には車が走り、走る時は喇叭(らっぱ)を吹いて進んだ」と描写している。車夫は豆腐屋が吹くようなラッパをプープー吹きながら人車を走らせたのだ。
車両はいったいどのようなものだったのか?
では、この人車鉄道の車両とは、いったいどのようなものだったのだろうか。手掛かりを探すために、実寸大で人車鉄道の客車を再現・展示している「離れのやど 星ヶ山」(小田原市根府川)のオーナー、内田昭光さんを訪ねた。 内田さんによると、「人車鉄道のレール幅は61センチ。これを基準に、写真などを参考にして車両の長さや高さを割り出して再現した」といい、敷地内に敷設されているレール上で実際に車両を動かすこともできる。 押してみると、乗客が乗っていない状態にもかかわらず木造の車両はずっしりと重く、当時の写真を見ると客車1両を2~3人の車夫が押していたようである。それにしても平地ならともかく、乗客が乗ったこの車両を上り坂で押し上げるのは、大変な重労働だったはずである。 一方で、下り坂に差し掛かると車夫は、車両の前後に付いたステップに飛び乗り、ブレーキをかけながら駆け下った。貧弱なレール上で、車幅の割に背が高くてバランスの悪いこの乗り物をスピードが出た状態で操車するのは難しく、脱線・転覆事故も起きた。 興味を引かれたのは、内田さんに見せてもらった1等車(上等車)の写真である。車体側面には、「上等」の文字とともに「FIRST」という英字も併記されている。1等車は外国人の利用が多かったためであろう。また、車内をよく見ると、「西陣織ではないか」(内田さん)という豪華な織物で壁が飾られている。建設費が安上がりという理由から採用された人車であったが、さすがに1等車にはお金をかけていたようだ。 【編集部より:書籍『かながわ鉄道廃線紀行』では、続いて筆者が、小田原から熱海まで人車・軽便鉄道がどのようなルートを走っていたのか、実際に踏査しています。】
筆者プロフィール:森川 天喜(もりかわ あき)
旅行・鉄道作家、ジャーナリスト。 現在、神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など。
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