ケアや“ご自愛”的な視点ではなく「見ろー!」って気持ちで書く。くどうれいん流、自分のための日記の書き方
過剰なキメ顔になっていないか自問自答
――「おもしろいから書くのではない、書いているからどんどんおもしろいことが増えるのだ」と書いていらっしゃいます。書くから面白いことが増えるとはどういうことでしょうか。 書こうと思いついた時にすぐにメモできる状態で暮らすのと、「よし書くぞ」と気合いを入れて書くスタンスで暮らすのでは、前者の方が些細なことでも面白がれるような気がして。書くことに対しては腰が重くない方がいいと思っています。感動とか大きく心が動くことにしか書く手が動かないようにはなりたくない。普段の暮らしの中で見つけたことを面白いって感じられるほうがちょっと得をした気持ちになれませんか? ただ、その一方である程度面白いことを見つけようと躍起になる時期を経ないと、自然に書けるようにはならないのかもしれない。積み重ねることも必要です。 ――くどうさんにも躍起になっていた時期はありましたか? もちろん! めちゃくちゃありました! 特に学生時代は、友達と話していて印象的なフレーズが出てくると「ゲット!」って思ってしまいました。 ただ当時から、ドラマチックに書くことよりも、着眼点でオリジナリティを出したいとは思っていて。喧嘩したとか、家族が亡くなってしまったとかは自分より上手に書ける人がたくさんいますし。 文章に対して粋でいたいのかもしれないです。このごろはもう少し腕を伸ばせばパンチが届くとしても、当てずに倒す方がかっこいいと思ってます。『わたしを空腹にしないほうがいい』(2016年刊行の「食べること」にまつわる文章をまとめた書店「BOOKNERD」発行のリトルプレス)は、本を出すなんてこれが最初で最後だと思って書いたので、腕をめいっぱい伸ばしてパンチを当てにいっちゃってるから、文章の「決め」が強い。今読み返すと「うお、頑張ってるね~」って感じます。 ――たくさん書き連ねても最後の一文だけ残す、ということをするとおっしゃっていましたが、それは粋でいるためのものでもありますか? そうですね。どこからが書きすぎで、どこまでがちょうどいいのか今も模索しています。その時の気分によって左右されるけれど、過剰なキメ顔になっていないかは自問自答していますね。