“コーヒーで描く”アーティスト、チェイス・ホールのアメリカ
コーヒーを用いた独自の絵画作品を通し、アメリカにおけるミックスルーツのアイデンティティを模索するアーティスト、チェイス・ホール。キャリア最大の個展を目前に控えた彼を、ニューヨーク郊外のアトリエに訪ねた。 【写真11枚】新進気鋭の画家、チェイス・ホールのアトリエに潜入!
ニューヨークのハドソンバレーにあるチェイス・ホールの家に着いたとき、私は彼にコーヒーがあるかどうか尋ねた。これは愚問としか言いようがない。何しろ、コーヒーを使って絵画制作を行っているのがホールなのだ。彼は1枚の絵のために最大100杯のエスプレッソを抽出し、豆の種類や挽き方、水量の比率によって何十種類もの異なる色調を作り出す。彼が注いでくれるアメリカーノは絶品だ。 カップを手に、私たちは白い下見板張りの家から8月下旬の陽光が差す野原を横切り、アトリエに向かって歩いた。ホールは朝、筆をとる前にここにやってくる。31歳のホールは若くして、奔放なダウンタウンのアートシーンと、この北部の牧歌的な隠れ家とに時間を分けることを決めた。ホールの妻、ローレン・ロドリゲス・ホールは、私の訪問の2カ月前に娘のヘンリエッタを出産したばかりだ。 父親であるということが、彼の人生に新たなリズムをもたらしている。彼はアトリエで使う大きくて頑丈な作業台を作るために木工を学びながら、8万5000平方メートルの敷地に生息する動植物に新たな魅力を見出している。「ここに七面鳥の家族が住んでいるんです」と、彼はゆっくりと森の中を進みながら話した。「この1年、彼らの成長を観察してきました。夢中になってね。ローブ姿でコーヒーを飲みながら、『私の七面鳥はどこかな?』なんて」 ■人生に意味を見出すための創作 10年ほど前、フォトジャーナリストになろうとニューヨークにやってきたホールは、今では現代アート界で最も話題の若手画家のひとりとなった。一目でそれとわかる彼の独学の絵は情熱に満ち溢れ、コレクターやギャラリーがこぞって求めるものとなっている。 「私は直線が描けなくて」と冗談を言うホールは、ハイスクール時代にバイト先のスターバックスでコーヒーを使って落書きを始めた。ホールの台頭は、若い黒人アーティストの絵画がアート市場で急成長した時期とちょうど重なる。彼の作品はアメリカ史における黒人の生活を独特のタッチで描いたものが多く、白人の母と黒人の父を持つ自身の重層的なアイデンティティに注意深い眼差しを向けている。 「混血であること、衝突、遺伝的なコンプレックスをどう語るかに興味があります」と、彼は語る。ロサンゼルスのデイヴィッド・コルダンスキー・ギャラリーで11月に開かれる自身最大の個展で、ホールは自分が本物であると証明することになるだろう。コルダンスキーによれば、このイベントは「若きアーティストが自身の地位を自らの手で固める」ものになるという。 北部に移ってから、ホールの創作活動は美的およびコンセプチュアルな深みを増していった。ホールとロドリゲスは数年前にこの場所を購入し、彼女が妊娠したのを機に、グレート・デーンのペイズリーとともにイースト・ヴィレッジから引っ越してきた。 以前は聖書の製本工場とウイスキーの蒸留所が入っていたという彼のアトリエに入ると、彼がその広さを活かし、自身のキャリアで最も野心的な作品を制作していることがわかった。ひとつの壁には、表面処理をしていない7mほどのキャンバスに木炭でラフな下絵が描かれていた。「ここに来たときは電気も水道も何もありませんでした」と振り返る彼は、「これまで夢見るしかなかった作家としての成長」を可能にするリソースがここにはあると話す。 子どもの頃のホールは芸術に関心があったわけではなかった。それよりも服が大好きだった。ラルフ ローレンの店を何時間も歩き回り、自分の紳士服ブティックを開くことを夢見ていたことを憶えているという。服がいかに着ている人の人柄を表し、いかにその人を変身させるかを、彼は当時から理解していた。 ホールは米ミネソタ州セントポールで生まれ、あちこちを転々とする子ども時代を過ごした。父親は家に出たり入ったりを繰り返し、ホールが「剛腕ギャングスターレディ」と温かく表現する母親は常に移動を繰り返していた。 生まれてからの16年間、彼と母親はミネソタ、シカゴ、コロラド、ラスベガス、サンタモニカ、マリブを渡り歩き、ドバイにも半年滞在した。8つの異なる学校に通ったこの時期のことを、ホールは「階級構造の中での揺れ動き」と呼ぶ。つまり、運がいいときと悪いときの振れ幅のことだ。ホールは、彼が言うところの「生存妄想」の中で生きながら、自分で自分の面倒を見る術を学んだ。「自分でできないことがあればできるようになるしかない、というのが私の考え方です」と、彼は言う。 10代後半になると、ホールはくらくらするような二重生活を送っていた。マリブのハイスクールではハンサムなラクロスの代表選手として人気を誇り、プロムには同級生のジジ・ハディッドを連れて行った。しかし11年生(日本の高校2年に相当)のとき、ホールの母親が法的な問題に直面したことで家を失い、所有物のほとんどが詰まった倉庫も手放さなくてはならなくなった。 ホールはそのときのことを「すべてが崩れ去った」ような瞬間だったと振り返る。友人の家を転々としながら、車で生活していたこともあった。富と特権に恵まれた白人の多いビーチタウンで、珍しい黒人のサーファーでもあったホールは人種と階級、自由と帰属意識の複雑な絡み合いを認識させられた。それは、今の彼が自身の絵画で巧みに掘り下げているテーマでもある。 自立心の芽生えたホールはドローイングに挑戦し、古いコンパクトカメラを使ってポートレートを撮り始めた。アートを作ることは、かつて自分を不安にさせた人生のいくつかの側面に「理由と意味を見出す」ために必要な手段だった。 ハイスクール卒業後の2、3年間、ホールはサーフィンに興じながら不動産会社で働き、VANSでインターンをし、その合間にできるだけ多くの写真を撮った。2013年、彼は棲み家にしていたRV車を売り払い、カメラを持ってニューヨークに移り住んだ。そこでシェフ見習いの仕事を得ると、すぐにストリートに飛び出した。 毎日25kmほどを歩き、その途中で出会った人物のポートレートを撮影した。日が落ちると家に帰り、ニューヨーク大学のアートスタジオの裏にあるゴミ箱から拾ってきた素材を使って一晩中絵を描いた。バリスタだった彼はコーヒーのかすを使ってレシートの裏に肖像画を描いていたが、ニューヨークでも使い残しのコーヒーは彼にとって安く豊富に手に入る“顔料”となった。 「チェイスの経歴や物語は英雄譚のように感じられます」と、コルダンスキーは言う。「彼がどこから来て何を達成し、何を見つけたのか、そのすべてに記念碑的な意味があるのです」 ■「彼こそが画家」 ホールが正式な美術教育に最も近づいたのは、ニューヨークに移って間もなくロドリゲスと出会ったときだった。パーソンズ・スクール・オブ・デザインで絵画と彫刻を学んでいた彼女は、すぐに新しいボーイフレンドを講義に忍び込ませ始めた。「チェイスと出会って、同じ空間で一緒に絵を描いたりお互いに何かを教え合ったりするようになって、すぐに明らかになりました。私は画家じゃない、彼こそが画家なのだとね」と、彼女は話した。 ホールはこの街の美術館やギャラリーで熱心に学習をし、アート界の大物に出会えば、まだスタート地点にある自身の活動について臆せずアピールした。美術評論家でガゴシアン・ギャラリーのディレクターであるアントワン・サージェントは、18年にギャラリーの資金調達パーティーでコンセプチュアル・アーティストのローナ・シンプソンと話しているときにホールが近づいてきたことを懐かしく振り返る。ホールはふたりの会話に割って入り、「5日後には自分のアトリエに来るよう、どういうわけか私を説得してみせました」と、サージェントは言う。 「そりゃ、私は恥を知りませんからね」。サージェントの思い出話を彼に持ち出すと、ホールは笑顔で言った。「拒絶されるのが得意なんです。十分でなかったことや欠点は常にモチベーションとなってきましたし、私はそれをすべて憶えています。ゲームの得点のように考えているんですよ」 ホールが自身の絵画の幅を広げたのは、キャリアが軌道に乗り始めてからだった。19年までに自身の美学に意識的になっていた彼は、コーヒーで色を付けた未処理のコットンキャンバスに、鮮やかなアクリル塗料を塗布する独自のスタイルを確立した。20年、彼はマサチューセッツ現代美術館でのレジデンシーの機会を得、その1年後にはフォーブスの「30歳未満の30人」に選出された。 「突然、『うれしくないのか? 絶好調じゃないか!』と言われるようになった」と、彼はそのときのことを振り返る。しかし、彼はむしろ葛藤を抱えていた。両親が拘留されたり、全米の都市でブラック・ライブズ・マター運動が起こったりしていた時期だった。「私はただ自分のことに専念しなければなりませんでした」 それまで疎遠だった父親から小包が届いたのはその頃だった。小包にはトイレットペーパーで作った擦筆や、乾燥した顔料で汚れた歯ブラシなど、父親が更生施設で使っていた基礎的な画材を収めたプラスチックの容器が入っていた。 「父はいつもクリエイティブでした。祖母は父が学校で描いた絵を保存しています。腕に覚えのある人ですよ」。ふたりを再び引き合わせたのはアートだった。「創作を通してお互いを知る機会がたくさんありました」と話す彼は、あるやりとりを振り返った。「『フタロブルー』と『ローアンバー』を合わせて黒を作ることができるという話なんかもね」 23年、ジョージア州のサバンナ芸術工科大学美術館での個展のためにインスタレーションを制作したホールは、モダニズムの画家ジェイコブ・ローレンスが使っていた道具の隣に父親の道具を置き、それを《Incarceration, Liberation, Perspiration》(監禁、解放、発汗)と名付けた。美術館のチーフ・キュレーター、ダニエル・S・パーマーは「あれは非常に力強い意思表示でした」と話した。 「私はまだ、アメリカ中を転々としながら目の前の問題をどうにか片付けようとしていた子どものときのままです」と、ホールは言う。「でも、私の作品は必ずしも傷ついたときのことを再現しているわけではありません。どちらかと言えば、どうやって立ち上がるのか、ということを考えているのです」