「都を離れた紫式部」越前国で過ごした1年の心情 雪が降る光景を見ても、心はつねに都にあった
式部が後に執筆する『源氏物語』のなかには、玉鬘(光源氏の親友、頭中将の娘)が肥後の監という土豪に求婚され、断り切れず、舟で逃げ出すシーンが描かれていますが、式部が越前に行くときの乗船体験も、執筆の際にかなり役に立ったのではないかと推測されます。 そのときは悪い体験だと感じても、後から振り返ってみれば、それは貴重で得がたい経験だったということもあります。 ■塩津山での印象に残る体験 さて、式部たちは、琵琶湖西岸を北上し、湖北の塩津に上陸しました。そして塩津山を越えて、敦賀に出ます。式部は塩津山でも、印象に残る体験をしたようです。
「塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして『なほからき道なりや』といふを聞きて」(塩津山を越えるとき、その道はとても草深く、下賤の男たちが見すぼらしい服を着て、式部らの乗っている輿などを担ぎながら、つらい道だなと言い合うのを聞いて)、式部は「知りぬらむ往来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと」と歌に詠んでいます。 「お前たちもわかったでしょう。いつも往来し慣れている塩津山は、名前のとおりつらい山道だということを。世渡りの道はつらいものだということを」という意味です。
この頃になると、式部の心にも少し余裕が出てきたのでしょうか。高波に舟が揺れているときと比べたら、今風に言うと、ギャグを考える余裕が出てきたように思うのです。身分の低い男たちが言い合っている「からき」(つらい)という言葉を聞いて、塩とかけているのですから。 それにしても「世渡りの道はつらいものだということを」と、式部は男たちに歌で密かに思いを投げかけていますが、えらく上から目線ではあります。私から見れば「世渡りの道はつらいものだ」ということをわかっているのは、身分の低い男たちのほうであり、深窓で育った式部ではありません。
式部はそれを理解していたようには、歌からは思われませんが、都の貴族の娘として育ったものの性というべきでしょうか。上から目線で、お嬢様気質というものが、式部にあったように思うのです。 夏に越前の国府に入った式部たちですが、北国の冬の訪れは早く「暦に初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳といふ山の、雪いと深う見やらるれば」(暦に初雪が降ると書いた日、すぐ側の日野山に雪が深く積もっているのを見て)との詞書が付いた「ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがえる」との歌を詠んでいます。