「黒い雨」はどこまで降ったのか・・・? 調査されなかった津田地区で語られる共通の記憶 第二次訴訟の原告は64人に 広島
原爆の「黒い雨」はどこまで降ったのか? 行政が「雨が降ったかどうか確認できない」としているエリアで口々に語られる共通の記憶があります。今回は、行政が認める雨の範囲からわずかに外れた地域の声と、雨の範囲を調査した気象学者の無念の声に耳を傾けます。 【写真を見る】「黒い雨」はどこまで降ったのか・・・? 調査されなかった津田地区で語られる共通の記憶 第二次訴訟の原告は64人に 広島 今から79年前の原爆投下後に放射性降下物を含む雨が降りました。いわゆる「黒い雨」と呼ばれるものです。この雨に遭ったという人たちが、「被爆者として認めてほしい」として広島市や県などを相手取って争っているのが、「黒い雨訴訟」です。24日も新たに18人が追加提訴して、原告は合わせて64人になりました。 原告の中でも多くの人が雨に遭ったと主張しているのが、当時の「津田町」、現在の廿日市市津田です。 およそ40年前に雨の範囲を調査した気象学者は、この降雨範囲の元になった調査には限界があったと話しました。 ■津田地区で口々に語られる雨の記憶・・・ 第二次「黒い雨」訴訟 原告 谷岡幸 さん 「落ちてバーンっていうた時にはね、やっぱり怖いと思うたがね」 谷岡幸 さん、90歳。当時は6年生で、学校の帰りに雨が降ってきたといいます。一番印象に残っているのは、麦畑の前を通った時のこと。登校時には麦こぎの準備をしている場所でした。 第二次「黒い雨」訴訟 原告 谷岡幸 さん 「2、3人で一緒に帰ったよ。10時過ぎぐらいだったかな。麦こぎをするのに、(麦が)もう濡れるけ、(はでに)シートをかぶせよったけえね。覚えとるね。ここら辺でね」 谷岡さんは、原爆が落ちた翌年に「心臓衰弱」だと医師から言われ、現在は腎臓病や高血圧を患っています。 谷岡さんは、24日、県に対して、被爆者健康手帳申請の却下処分取り消しを求めて提訴しました。第二次「黒い雨」訴訟の原告は、去年4月以降、これで64人に上ります。 原告らの申請が却下された主な理由は、そこに「黒い雨が降ったかどうか確認できない」からです。 行政的には、この雨域=雨が降ったとされる範囲の外は「わからない」とされているのです。その一つが、廿日市市津田。原告の4割を超える27人が、雨に遭ったことを主張している地域です。