“長嶋ボール”は本当にあった!? ヤクルトのレジェンド名捕手・大矢明彦氏が明かしたON秘話 「憧れの王氏がいた早実野球部に入るため」キャッチャーになった
野球部員が多すぎてユニフォームに「205番」
1963年、大矢氏は早稲田実業高等部に進学。子供のころからの憧れのユニフォームを着て甲子園出場を目指したが、2年夏は東京大会決勝で敗退、3年夏は準々決勝で敗退と、その夢は叶わなかった。 同級生には、荒川博氏に才能を買われて養子になり、のちに早稲田大学を経てヤクルトに入った荒川堯氏がいた。 徳光: 高校からも、また新たに野球部員が入ってくるんでしょ。 大矢: そうです。野球部の人数は多かったですね。僕らのころで1学年250人くらいいましたんで。 徳光: えっ、1学年250人が野球部。 大矢: ええ、そうですね。名前を覚えてもらえませんから、ユニフォームの胸と後ろに番号を書くんですよ。僕は「205番」だったんです。それで、「おい、205番」って呼ばれてましたからね。 徳光: 塀の中じゃないんですからね(笑)。 大矢さんは何年でレギュラーになったんですか。 大矢: 僕は高校2年生の春から。 徳光: キャッチャーでですか。 大矢: そうです。2年生の夏の東京大会決勝まで行ったんですけど、そのときはキャッチャーでした。決勝で修徳に負けて甲子園に行けなかったんですよね。 ご存じだと思うんですが、成田(文男)さんっていうピッチャーがいて…。 徳光: ロッテに行った成田さん。 大矢: はい、そうです。成田さんに負けました。 それで、夏の大会が終わると、僕ら2年生が最上級生になって秋の新人戦。最初はキャッチャーだったんですが、準々決勝の前の日に、エースだったやつが肩が痛くて投げられなくなった。監督が「お前と(荒川)堯とでジャンケンしろ。お前らどっちか、明日投げろ」って言って、僕がチョキで、荒川がパー。 徳光: (笑)。 大矢: それで僕が投げちゃったんですよ。だから、そこからピッチャーでやってました。 徳光: じゃあ、その後はずっとピッチャーをやってたわけですか。 大矢: そうですね。ダブルヘッダーのときは、1試合目にキャッチャーやって2試合目ピッチャーとか、1試合目にピッチャーやって2試合目キャッチャーとか。 早実は東京では野球が強くて結構いい学校じゃないですか。土日の練習試合って2試合、午前と午後にやるんですよ。 当時、銚子商業には木樽(正明)がいて強かったんですけど、ある日、その銚子と午後にやって午前中は甲府商業だったんです。 徳光: えっ、堀内(恒夫)さんですか。 大矢: そう。甲府商業なんて知らなかったんですよね。でも堀内の縦に落ちるカーブ見てビックリですよね。 徳光: 高校生のころからあのボールを投げてたんですか。 大矢: そうなんですよ。それで、午前中は堀内に完封負け、午後は木樽に完封負け。死ぬほど走らされましたよ。 徳光: 当時の早実としては、こんな屈辱はないと(笑)。 大矢: 「1日、1点も取れないって、お前ら、早実始まって以来だ」って怒られてね。 (BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/9/3より) 【中編に続く】
プロ野球レジェン堂
【関連記事】
- 【中編】「安田猛はノーサイン、松岡弘にはいい音が出るミット」名捕手・大矢明彦氏が語ったヤクルト両エースの生かし方と“魔術師” 三原脩監督に教わったプロとしての生き方
- 【後編】「若松勉とわんわん泣いた」大矢明彦氏がスワローズ初優勝裏話を披露 山本浩二氏、掛布雅之氏、R.バース氏…セ・リーグ好打者との対戦思い出
- 原辰徳氏の入部で練習環境が一変…“元祖ハマのエース” 遠藤一彦氏・横浜大洋ホエールズのレジェンドが語った東海大野球部裏話 忘れられない巨人・江川卓氏に投げ勝った日
- 少年時代は背中に墨で背番号「3」、大学時代は寮で熱唱し近隣トラブル…“絶好調男”中畑清氏が語る成長秘話 巨人からのドラフト指名も喜べず!?
- 酔いすぎて始球式で大失敗…阪神タイガース史上最高の“切り込み隊長”真弓明信氏が語る優勝裏話 リーグ制覇の瞬間は胴上げに備え勝手に守備位置変更!?