【卓球】「日本にはオギムラがいた」。日本卓球界には誇るべき偉人、荻村伊智朗がいた
荻村伊智朗は30年前のこの日、62歳で生涯を終えた。
日本卓球界には、30年前のこの日に亡くなった、誇るべき偉人がいた。 荻村伊智朗だ。 1950年代、日本卓球界の栄光の時代を築き、2度の世界チャンピオンになり、12個の金メダルを獲得した。これがオギムラの第一の顔だ。 現役時代から、卓球専門誌の連載に筆をふるい、卓球指導書を上梓する。そして、現役時代の後半には選手兼コーチ、そして監督として日本卓球界を牽引、さらに海を渡り、スウェーデンや中国でも卓球の指導にあたり、世界の卓球界に貢献した。卓球指導者、これが第二の顔だ。 世界選手権に初出場する時に、当時世界に君臨していたヨーロッパのカットに対して「51%理論」という独創的な攻撃理論を展開。その後、「速攻三原則」「空間戦術・時間戦術」などの卓球理論を次々発表していく。卓球理論家、これが第三の顔だ。 卓球理論とともに、15冊の本を世に送り出した。幅広い教養と経験に裏打ちされた文章は独特であり、自ら『卓球ジャーナル』という卓球専門誌の発行人となり、当時の卓球人を啓蒙した。卓球文筆家、これが第四の顔だ。 そして、日本卓球協会の専務理事、国際卓球連盟(ITTF)理事を経て、1987年にITTF会長に就任。就任直後から世界中を飛び回り、卓球のカラー化、プロ化などを推し進めた。世界卓球界のリーダー、これが第五の顔だ。 その後、彼のアイデアはアダム・シャララ元ITTF会長に受け継がれ、ボールやルールの変更、プロツアーの発展として具現化している。 不世出の卓球人、荻村伊智朗は癌に冒されながらも意識を失う寸前まで仕事を続け、1994年12月4日にこの世を去った。 我々卓球人はこの偉人の名前と、彼がやり遂げた功績を忘れてはいけない。 あれほどの頭脳の持ち主を私は知らない。 荻村伊智朗は14歳にして国際通訳養成所に通い英会話を学んでいる。東京の都立西高入学後に卓球を始め、6年後、初めての世界選手権出場で優勝した。22歳の春だった。その際には選手団の通訳を務めていた。世界選手権では全種目で12個の金メダルを獲得。 卓球理論家、指導者として15冊の書籍を刊行した。 日本史、世界史にも精通し、音楽家マイルス・ディビスを愛し、33歳にして日本卓球協会の理事を務め、1987年世界選手権ニューデリー大会では日本人として初のIF(国際競技連盟)会長である、国際卓球連盟会長に選挙で選ばれた。時に55歳。 「卓球とは100m競争をしながらトランプのブリッジをするような競技」(のちに、100m競争をしながらチェスをするような、と異訳されている)という名言を残した。コピーライターとしての才能もあった。 卓球の普及とメジャー化のために世界中を飛び回り、1994年12月、62歳という生涯を終えた。まさに荻村伊智朗は太く短く人生を駆け抜けた。 (卓球王国発行人・今野昇)