【証言・北方領土】水晶島と国後島・元島民 佐藤健夫さん(3)
戦後2カ月、島を脱出
―佐藤さんが国後島を出たのはいつですか? 逃げたのはですね、10月の末なんですよ。 ―逃げるまでの生活は? 緊迫感ってないんですよ、占領されたっていうか、そういうロシア人は2週間ぐらいいたけど、触れ合ったけど、そういうふうに我々仲良くなれたからね、あんまり、何ていうか、早く逃げようとか、そういう気持ちではなかったんですよ。だけど、やっぱり、そういうロシア兵で、もう占領されたっていうことで、いろいろデマが飛ぶんですね。男性は全部シベリアに連れて行かれるとかさ、いろいろデマが出て、親も心配したんだと思うね。それで、脱出。 周りの人も、脱出した人が出てきたから、親も心配してね、これはやっぱり逃げないだめなんだろうっていうことで判断したんで、3回に分けたんです。1回で3人。まず自分、船持ってないからね、昆布とる船は、あれ機械ついてないから、だから、誰かに頼まんとなんないですよ。だから、事前に荷物をいっぱい積んだ船の上に乗してもらうと。だから、変に寝たら落ちてくから、寝れねえんですよ。それで、見つかったら、やっぱりだめなんですよ、逃げたら。そういうところを逃げるんだから、真っ暗んなってね、見つからないようにして逃げるんですよ。 だから、夜、沖に船が待っててね、伝馬船で、こうずっと行って、そして乗るんですけど、初めは、私と、すぐ兄と、一番近い姉と3人乗してもらって、10月の末に逃げたんです。
祖母は1人「私は残る」
なぜ一遍に逃げなかったかっていう理由は、まとまんなかったんだね、一遍でみんなで逃げようっていうのはね、なかなかまとまんなかった。それはね、今、振り返ると、ばあさんがね、「私は残る」と。それで、母親は長女だしね、1人だけ残していくっていうのはできないっていうことで、初め、まず3人っていうことんなったと思うのね。 そのころね、逃げる人が多かったんですよ。おそいですから、船ね。夜真っ暗なってから一気に機械をかけて、根室を目指すわけね、120キロぐらいあるから、何時間ぐらいかかったんだろう。7、8時間以上かね、朝方着くんですから、夜出てね。夜中走るんだから、根室に向けてね。朝方、何時かな、明るくなっていましたけどね。私たちは、頼んでおいた旅館にね、その港の近くに旅館がありました。今もうないですけどね。そこに入って、泊まったんですけど。2回して、毎日朝、朝早く、帰ってくる人が港ヘ着くの。それはすごかったですよ。 それで、毎朝、母親が帰ってこないから、母親と、あと3人兄弟残ってるからね、ばあさんも残ってたんですけど、だけど、結局、ばあさんは残ったんです。結局、財産もつくったし、それから、自分の夫のね、墓もあるし、建物も、うちもあるし、苦労して、やっぱり生活してきたところを離れたくは、やっぱなかったんでしょうね。母親と兄弟3人は、11月の末だね。 僕たち、毎日、港に出迎えに行ったんだけど、ちょうど末にね。そのころ、もう波が高くなるからね、危ないんですよ。 ―戦時中、国後島で空襲警報は聞きましたか? そういう切羽詰まったね、そういうあれはなかったですね。だけど、やっぱり、役場関係とかで、そういう情報がね、伝わって、村に来てたと思うんですけど、僕たち子供ですからね、切迫感はないんだけど、やっぱり親は、大人たちは、根室もそうやって空襲に遭ってるからね、島も危ないんでないかっていうことだと思うんだ。それで、防空壕、防空壕ってわかりますよね。山がいっぱいあるから、こう横はトンネルみたい、そういうのすぐつくりやすいからね、だから、そういう穴を掘って、そこに隠れたっていうかね、そこで泊まったこと、何回かありますよ。 だけど、爆弾が落とされたっていう記憶はないですね。