W杯でモドリッチが活躍 旧「ユーゴ連邦」紛争の歴史と現在
フランス2度目の世界一で幕を閉じたサッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会では、旧「ユーゴスラビア連邦」にまつわる国の選手の活躍や出来事がありました。旧ユーゴは1990年代、長く激しい紛争に突入し、解体されました。当時「民族浄化」と呼ばれる大量殺りくが繰り返されたことも知られています。W杯をきっかけに、その紛争の歴史や、解体された旧ユーゴ諸国の歴史について振り返りたいと思います。元外交官で在ユーゴスラビア連邦共和国大使を務めた経験もある美根慶樹氏に寄稿してもらいました。
モドリッチのクロアチアが準優勝
今回のW杯ロシア大会決勝でクロアチアはフランスに敗れ準優勝で終わりましたが、その活躍ぶりには世界が目を見張りました。同国のエースであり、名門サッカークラブのレアル・マドリードで活躍しているモドリッチは今大会の最優秀選手に選ばれ、プーチン大統領からゴールデンボールのトロフィーを授与されました。 クロアチアはバルカン半島にあり、隣国のセルビア、ボスニアヘルツェゴビナ(ボスニア)、スロベニアなどもサッカーが大変盛んです。セルビアもロシア大会に出場し、もう少しで16強に残れるところまで健闘しました。 さらにボスニアやスロベニアも過去の大会で予選を突破して本大会に勝ち進んだことがあります。 これらの国は、かつて「ユーゴスラビア(ユーゴ)」という一つの国であり、国際的なサッカー試合には、ユーゴスラビア代表として参加していました。1962年のW杯チリ大会では4位になった経験もあります。
ユーゴ紛争の勃発から解体へ
かつてユーゴはバルカン半島の西半分(西バルカン)を領域としていました。その指導者は、ヨシップ・ブロズ・チトー(単にチトーと呼ばれることが多い)。第二次大戦中にナチスと戦い、戦後にユーゴを建国した立役者でした。国際的にも「非同盟運動」の指導者として、インドのネルーなどと並び称せられる人物でした。ちなみに非同盟運動とは、冷戦期に東西どちらの陣営にも属さない国々が協力しあって自分たちの立場を強化しようとする運動です。 しかし、ユーゴの内部事情は複雑で単一国家として長く持ちませんでした。チトーは1980年に死去し、1987年から大統領となったミロシェビッチは大セルビア主義を振りかざしてユーゴの中央集権的体制を引き締めようとしたため各地で反発が強まりました。そしてセルビアがコソボを編入したのをきっかけに、ユーゴ全域が不安定になりました。チトーによって保たれていた統一が、ミロシェビッチの民族主義的な動きによって、各地の民族意識に火を付けたのでした。そして1990年代の初頭から分裂が始まりました。コソボが独立しユーゴが解体するまでのおおまかな流れは以下のようになります。 1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立。 1992年 ボスニアが独立。しかし、その後「民族浄化」などのため紛争が激化。 1992年 以上の4共和国が離脱した後、セルビアとモンテネグロは「ユーゴスラビア連邦共和国」(新ユーゴ)を構成。 1995年 アメリカ主導で「デイトン合意」。ボスニアの紛争が終結。 1999年 コソボ紛争激化、NATO空爆など 2008年 コソボが独立