被告人を「奴ら」「あいつら」と語る…国民を脅かす”冤罪事件”につながりかねない「刑事系裁判官」の問題点
刑事系裁判官が少ないワケ
これは理由のないことではない。たとえば、アメリカの裁判所では、刑事裁判に関しては、有罪無罪の判断につき陪審員の評決にゆだねて裁判官が関与しない陪審制が原則とされていることもあって、刑事裁判の専門家はあまりいない(裁判官は、刑事事件の法廷では、陪審員に法律面の説明、説示を行うのが主な仕事である)。 私が留学していたシアトルの州地裁では、刑事裁判については、回り持ちで、常時、2割くらいの裁判官が担当していた。アメリカの重大刑事犯罪が日本とは比較にならないほど多いことを考えていただきたい。 そのアメリカでさえこうなのである。つまり、今日においては、刑事裁判は、家裁の事務と同じく、もっぱらそれを担当する裁判官を考えるのは東京、大阪のような大地裁だけでよい(通常の裁判所レヴェルについていえば、特に刑事専門の裁判官を養成しなくても、キャリアの中で適宜担当していくことで十分な)仕事となっているのである。 事実、私が判事になった前後だったと思うが、一時的に、今後は、刑事専門の裁判官は養成せず、先に述べたような、「全裁判官が適宜刑事も担当する」という方法でキャリアシステムを運営していくという方針が表明されたことがあった。 間もなく立ち消えになってしまったのは、おそらく刑事系裁判官の反対にあったためであろう。実際、逮捕状、勾留状、捜索差押許可状等の発布に係る令状事務については、現在では、昔とは異なり、全裁判官が平等に近い形で担当している。 なお、この点について、刑事系裁判官の層が薄くなると市民生活の安定が脅かされるのではないかと考える方がいるかもしれないが、決してそのようなことはないのは、諸外国の例をみてもわかるとおりである。
被告人を「奴ら」と呼ぶ裁判官
刑事系に特化した裁判官も、東京や大阪のような大裁判所ではある程度の数必要だということまでは一概に否定しないが、それは、家裁の裁判官や知的財産事件担当裁判官について同様のことがいえるのと同じ意味においてにすぎない。つまり、そんなに大きな人数は必要ではない。 むしろ、刑事系に特化した裁判官には、検察官との心理的距離がなくなりやすく、検察寄りにバイアスがかかる傾向が否定できない、公安事件等の担当が多くなることから、ことにそうした事件については予断を抱きやすい、被疑者、被告人に対する偏見が強くなりがちである(被告人のことを語る際に、「奴ら」、「あいつら」といった言葉を用いる裁判官はかなりの数みかけた)など、国民、市民の人権を守るという観点からするとむしろマイナスの要素が出やすいことも考えておく必要がある。 こうした問題点が冤罪裁判につながるのである(なお、被疑者とは捜査の対象となっているがまだ公訴を提起されていない者であり、被告人は公訴を提起された者である。また、刑事系裁判官の中には、非常に温厚、寛容で人間性に関する理解も深い裁判官もまた存在するが、私の知る限り、その数は非常に少ない)。