無職の父のせいで婚期を逃し、約20歳差で結婚… 紫式部の「みじめな家系」とは?
名前も生没年もわからない、謎めいた女性・紫式部。大河ドラマ『光る君へ』の主人公となったが、いったいどんな女性だったのだろうか? 家系としては、道長と同じ藤原北家でありつつも地位としては落ちぶれていた傍流。しかし、系譜をよく探っていくと、紀貫之や平清盛など著名な人物との興味深い縁も見えてくる。詳しく調べてみよう。 ■謎めく女性、紫式部とはいったい? 紫式部とは、なんとも「謎めいた女性」である。宮廷内の女性たちを虜にした『源氏物語』の作者でありながら、その人物像を記す記録は、自著以外、実に少ない。 まずもって、名前さえ不明(香子だと指摘する向きもある)。生年も没年も、どこで亡くなったのかも定かではない。いかに当時は女性の名が記録されることが少なかったとはいえ、残念としか言いようがない。 身近なところでわかっていることといえば、父が式部丞だった藤原為時で、母は中納言・藤原為信の娘(名は不明)。惟規(のぶのり)という名の兄あるいは弟と、これまた名前は不明ながらも姉がいたこと。 さらに、山城守・藤原宣孝(のぶたか)と結ばれて、賢子という名の娘を生んだということぐらいだろうか。彼女が記した『紫式部日記』なる書によって、パトロンとなった藤原道長や、彼女が仕えていた道長の長女・彰子を取り巻く女房たちとの関係性を通じて推察するしか術がない。 ■落ちぶれた家系、10年無職だった父 また、よく語られるところとして、彼女を宮中へと引き込んだ道長とは、同じ藤原北家でありながらも、「式部の系統とは格差があり過ぎる」との指摘も気になるところだ。 道長が北家の祖・房前から冬嗣や良房を経て道長へとつながる華やかりし嫡流であったのに対し、式部の父は、冬嗣の六男・良門の流れを汲む傍流の出自。権勢を誇った嫡流の面々とは違って、傍流ともなると、同じ北家とはいえ、悲哀を舐めることも少なくなかった。 ともあれ、その系譜を振り返ってみよう。良門の長男・利基が従四位上・右近衛中将に、その六男・兼輔が従三位・権中納言に任じられたものの、兼輔の長男・雅正の代辺りから地位が低くなっている。従五位下・周防守という受領階級に成り下がってしまったのだ。 受領ともなれば、賄賂なども期待できただろうから、それなりに実入りがよかったと言われることもあるが、貴族としては中~下級。その地位に甘んじなければならなかったのである。 その雅正の後を受け継いだ式部の父・為時に至っては、花山天皇即位に伴って式部丞に任じられたものの、天皇退位に伴ってやむなく辞任。その後、10年間も散位、つまり位階はあっても職に就けないという落ちぶれようであった。 父が無職であったその間に婚期を迎えていた式部。その結婚が遅れたというのも、妻の実家の地位を重んじる当時の風潮からしてみれば、当然とも思えるような状況であった。親子ほども歳の差(20歳ほど)のある藤原宣孝からの求婚を受け入れたのも、彼女の置かれていた立場を鑑みれば、むしろ幸運だったというべきかもしれない。 ■文人としては一流だった父・為時 ただし、地位の低さに甘んじてはいたものの、式部へと系譜を繋げてきた良門以下の先祖たちの文人としての評価は、実は飛び抜けて高かった。文人として有能な人物揃いであったことを見逃してはならないのだ。 まず、父・為時自身がそう。10年にもわたって無職だったというのは、さすがに政治家としての能力の欠如を疑いたくなるが、それも、考えようによっては、学者ならではの不器用さゆえだったのかもしれない。 ともあれ、この御仁、東宮(師貞親王、後の花山天皇)に副侍読(学問を教える役目)として仕えたというから、学者としては一流であった。平安中期の漢詩集『本朝麗藻』に13首、『後拾遺和歌集』に3首もの漢詩が採録されていたともいうから、漢詩人としての評価も高かった。その才能を見込まれて、無職の期間中も詩宴などに召され、なにがしの禄(絹など)を下賜されることも少なくなかったに違いない。 この才が大いに役立ったのが、996年正月に行われた除目(官吏や地方官を任命する儀式)においてであった。最初に任じられたのは淡路守であったが、地方行政区画のうちの一番下位の下国とあって、さしたる実入りが期待できるところではなかった。 ここで為時が、一世一代の大勝負に出た。