無職の父のせいで婚期を逃し、約20歳差で結婚… 紫式部の「みじめな家系」とは?
■天皇を感動させた為時の詩 「苦学の寒夜 紅涙襟をうるおす 除目の後朝 蒼天眼に在り」 (寒い夜にも耐えて勉学に励んできましたが、人事異動で希望する官職に就くことができず絶望。赤い血の涙が袖を濡らしています) 為時は、そう記した句を一条天皇に奏上して、苦しい身の内を訴え出たのである。 これを目にした天皇が、なんと、感に絶えず涙したとか。その天皇の思いを汲み取った道長が、すでに越前守に任じていた源国盛を辞退させて、そこに為時を任じ直したというのである。為時にとっては、これ以上ない幸運であった。 ただし、任を解かれた国盛こそいい面の皮であった。悲しみの余り病床に臥せって、ついには病がこうじて亡くなってしまったとか。為時の詩の力は、人の命を奪うほどのものであったとことも、忘れてならないのだ。 ■紫式部は紀貫之から歌の手ほどきを受けていた? もう少し、式部の系譜をたどってみることにしよう。傍系とは言いながらも、際立つほどの才覚に恵まれた人々によって占められていたことに、驚かされるはずである。 まずは父・為時の系譜を遡ってみよう。父・為時の母方の祖父にあたるのが、右大臣・定方である。この御仁、政治的な能力ばかりか、優れた歌人としても知られていた。『古今和歌集』をはじめとする勅撰和歌集に13首も入集されたほどの名歌人で、日本文学史上最高の歌人と評価されることもある紀貫之の後援者でもあったというから驚く。 ちなみに、式部は宣孝と結婚する前に、実は結婚歴があったのではないかと推測されることもある。そのお相手が、この貫之の子・時文であったとか。もしこれが事実なら、式部は歌人として最高の実力を有していた貫之から歌の手ほどきを受けていた可能性も考えられるのだ。 ここでもう一度、話を彼女の家系に戻そう。定方には娘・能子がいたが、彼女が嫁いだのが藤原北家嫡男の実頼であった。その弟・師輔の孫が道長である。式部と道長は遠い親戚であったが、道長の妻である倫子とは又従兄弟(はとこ)の間柄でもあった。 また、定方の曽孫が、式部の夫となる宣孝で、式部とは又従兄弟の間柄。思いのほか、近しい間柄での婚姻が繰り返されていたのである。 ■平清盛との「不思議なつながり」とは? 式部の母方の系図にも、目を向けてみることにしよう。母は中納言・藤原為信の娘で、その姉か妹(つまり式部にとっての叔母か伯母)が肥後守・平維将の娘である。 一説によれば、この娘が式部の親友で、互いに「姉」「妹」と呼ぶほどの親しさであったとか。また、この維将の父が貞盛で、弟・繁盛とともに平将門の乱を平定した人物として知られる武将であった。 さらに維将の系譜をたどってみてビックリ! 維将の弟・維衛は伊勢平氏の祖となった人物で、大江匡房が「天下之一物」とまで評したほどの優れた武将であった。この維衛から数えて6代目が清盛である。 清盛といえば、真偽のほどはともあれ、『平家物語』によれば、比叡山延暦寺の中興の祖と称えられる慈恵大師(良源、元三大師)が化身した人物とみなされた御仁。この大師が創建したとされる寺院の一つが、京都にある盧山寺である。 ここで、盧山寺と聞いて、ピ~ンときた方もおられるに違いない。そう、まさにそこは、式部の生家跡で、『源氏物語』を執筆し始めたところであった。となれば、式部は平清盛とも、時代が異なるとはいえ、奇妙な縁で繋がっていることになる。何とも不思議というべきか。 藤原摂関家を引き継ぐ道長の系図とは比べ物にならないほど華やかさに欠けると思われがちな式部の系譜も、そこに連なる人物も、文芸という分野に限ってみれば、実に華麗なる経歴の持ち主が連なっているのだ。式部の文才は、単に彼女だけに備わったものではなく、脈々と受け継がれてきたものであったのである。
藤井勝彦