「信じられない」箱根駅伝で“伝説の20人抜き”はなぜ起きたのか? 4年間の箱根路で「合計50人抜いた」ケニアのごぼう抜き男を覚えているか
第101回を迎えた箱根駅伝。同大会の大きな見どころの一つに、ひとりのランナーが複数人のランナーを追い越し、順位を押し上げる“ごぼう抜き”がある。1区間で20人を抜いた伝説のランナーなど、ごぼう抜きの歴史を『箱根駅伝100年史』(KAWADE夢新書)から抜粋して紹介する。《全3回の第3回/第1回、第2回も公開中です》 【秘蔵写真】はしゃぐ原監督に叫ぶ大八木前監督!“茶髪サングラス”で2区を走ったエース、柏原・神野ら山の神に黒縁メガネの大迫傑も…箱根駅伝スターの名シーンを一気に見る(90枚超)
「信じられない」20人の“ごぼう抜き男”が誕生
テレビで箱根駅伝を観るときの楽しみのひとつが「ごぼう抜き」である。ひとりの選手が次から次へと先行する選手を追い抜いていく。 当然、実況しているアナウンサーも興奮気味に「もう止まらない! これで9人、さあ、あと何人抜かすのか!」などと絶叫する。1月2日、午前9時過ぎから10時過ぎまで、と時間的にもちょうどいい。だから2区はテレビの画面から目が離せない。ひょっとしたら、難所の権太坂でアクシデントがあるかもしれないと、少しは思っているので、なおさらである。 ごぼう抜きは21世紀に入った2003(平成15)年の第79回大会から急に増えだした。それまでの11人以上のごぼう抜きは、1974(昭和49)年の第50回大会で東京農大の2区を走った服部誠の12人抜きがひとり抜きん出て目立っていた。 ところが、第79回大会で順天堂大の中川拓郎が15人抜き、関東学院大の尾田賢典が12人抜きを演じると、以後の大会で徐々に増え始めてくる。2008(平成20)年の第84回大会では日本大のギタウ・ダニエルが15人抜き、東海大の伊達秀晃が13人抜きをやってのけた。 そして翌2009(平成21)の第85回大会では、信じられないごぼう抜きの「新記録」が誕生した。演じたのは前年15人抜きの「実績」を持つ、日本大のケニアからの留学生ダニエルだった。なんと20人抜きである。
ダニエル20人抜きの裏で…最速だったのはモグス
第85回大会は、5年ごとの記念大会だったので参加したのは例年よりも多い23チーム。1区を終了した時点での日本大の順位は、下から2番目の22位だった。ダニエルの快進撃は、襷を渡されてからすぐに始まった。まずは21位の青山学院大をかわすと、そのままひたすら走り続け、最後には神奈川大を抜いて2位に躍り出て、3区の谷口恭悠に襷をつないだ。このダニエルの「貯金」のおかげで日本大の往路は8位。総合でも7位にとどまり、シード権をしっかり確保した。 しかし、脅威の20人抜きを成し遂げたダニエルは、2区で区間賞を獲得できなかった。2区を制したのは同じケニアからの留学生、山梨学院大のメクボ・ジョブ・モグスだった。タイムはダニエルの1時間7分4秒をちょうど1分上回る1時間6分4秒の区間新記録。超人的なごぼう抜きはけっして超人的なスピードとイコールではなかったのだ。 一見派手なごぼう抜きだが、実現するにはさまざまな条件が前提になる。もちろん個人の力量が第一条件なのだが、まず自分の前に追い抜けそうなランナーが数多く存在していなければならない。次に、追い抜くランナーたちとの時間差が広がっていないことが挙げられる。 前述したように第85回大会は記念大会で出場が23チームだった点で、最初の条件が満たされている。さらに、1区がまれにみる大混戦で、鶴見中継所でダニエルが22番目に襷を受けとったときのトップ早稲田大とのタイム差が1分46秒しかなかったことも、条件に合致していた。 データを細かく見てみると、派手な20人抜きを演じたダニエルは、前述したように区間新記録を樹立したモグスに1分も遅れを取っている。もし並走していたならば、モグスの驚異的なスピードがもっと称賛されていたはずだ。しかし、テレビ的には、この大会の2区のヒーローは断然ダニエルだったのである。
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