<でっかい夢・’21センバツ大崎>/上 名将就任でチーム“新生” /長崎
大崎にセンバツ出場の吉報がもたらされた1月29日夕。寒風吹きすさぶ西海市大島町のグラウンドで、清水央彦(あきひこ)監督は目を赤くして選手や引退した3年生に語りかけた。「3年前に大崎に来た時はグラウンド整備から始めたな」 清水監督が大崎の監督に就任したのは2018年4月。当時の部員は5人と廃部寸前で、グラウンドは雑草が生え、石ころだらけの荒れ地と化していた。チームが夏の長崎大会で3回戦まで進んだのは過去10年で1度だけ。そんな弱小チームの監督に、県内では“名将”と名高い清水監督が就任するまでには紆余(うよ)曲折があった。 清水監督は、高校の先輩の吉田洸二さん(現・山梨学院監督)が率いる清峰でコーチを務め、06年のセンバツで準優勝に輝いた。09年春には県勢初の全国制覇を成し遂げたが、清水監督の姿は既になかった。その約半年前、生徒に手を上げたことが理由で辞任に追い込まれていたためだ。 その後、佐世保実業の監督として12、13年にチームを夏の甲子園に導いたが、13年8月、部員間の暴力事件が発生。清水監督は「暴力を指示した」などとして日本学生野球協会から謹慎処分を受けた。「事実と違う学校側の報告で処分が決まった」と不服を申し立てたが処分は覆らず、ユニホームを脱いだ。「ちやほやしてくれた人たちも、みんな周りからいなくなってしまった」 「野球を通じた町おこしに協力してほしい」。失意に沈んでいた時、人口減に悩む西海市長(当時)に請われ、14年に市教委職員に採用された。指導現場に戻ることには葛藤もあったが、復帰を望む人たちの声に後押しされ、「島の学校でゼロから自分の実力を試したい」という夢を取り戻した。自ら大崎に足を運び、「私なら絶対に甲子園に連れて行ける」と当時の校長に猛アピールし、監督の座をたぐり寄せた。 18年春、清水監督を慕って県内各地から有望な新入生約20人が集まった。「世間的に犯罪者扱いだった私を信じてついてきてくれた。この子たちへの義理は絶対に果たさないといけないと思った」と清水監督は振り返る。 西海市から初の甲子園出場を果たして島を元気にしたい――。並々ならぬ覚悟で指揮官に就いた清水監督の下、“新生大崎”が始動した。 ◇ ◇ 3月19日に阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で開幕する第93回選抜高校野球大会に、県勢の大崎が出場する。無名だった大崎が春切符をつかむまでの軌跡をたどる。 〔長崎版〕