お客様からかけられた「あなたここの社員?」この言葉で人生が変わった コロナ禍からV字回復を果たし、花で人を幸せにし続けている秘訣とは
「スイッチ」が入った高校大学時代
ちょっとした転機が訪れたのは、高校生のとき。 中学校3年生の6月頃、進路について担任の先生から「近くの高校に行くのもいいし、地元を離れて、環境を変える選択肢もあるよ」と紹介されたのが、世羅町から50キロ離れた福山市にある、盈進(えいしん)学園だった。 このまま地元の高校に行っても小中学校と同じようなメンバーで「高校生活もこんな感じかな」と想像できた。それよりも「新しい環境に身をおいてみるのもいいかも」と思い、推薦入試を受けてみると合格。 引っ込み思案ではあったが、なんとなく殻を破りたい気持ちもあり、地方から通う学生のための寮で、全然知らない人たちと共同生活を送ることを選択する。 中学校までは喘息もあって体力がなく、積極的に何かをするという感じではなかった吉宗さんだったが、高校で寮に入りさまざまな人と「半強制的(笑)」に交わらないといけなくなったことで、少しずつ気持ちが前向きに変化していった。 入学して部活の体験入部があり「体力をつけなくては」と、たまたま仮入部したバドミントン部で、意気投合した生徒がいた。別のクラスだったが、一緒に動いていると楽しい。その彼と「一緒に入るか」という話になり、体育会系ど真ん中のバドミントン部に、正式入部する。 それまで運動が苦手だった吉宗さん。しかしいきなりハードな運動部に入り、半泣きになりながら朝1時間、授業後3時間の練習を3年間続ける。 ひたすら部活に明け暮れたことで、体も鍛えられた。
大学へ進学、そして思いがけない出来事が
もともと実家は養鶏場を営んでいたのだが、吉宗さんが高校生の頃、父親が近所の農園を引き継ぎ、花の観光も始める。近所で葉タバコを生産していた旭鷹(きょくほう)農園の人から「経営を続けるのが難しいから、やってもらえないか」と父に相談があり、引き受けたのだ。 旭鷹農園では、すでに葉タバコは栽培しておらず、広い畑の一角にビニールハウスを立てて、切り花を栽培して売っていた。養鶏で卵をスーパーや百貨店に卸していた父は、葉タバコを作っていた広い畑を利用して野菜を作れば、卵の販売網を使って野菜も販売できないか、などと考えていたようだ。 養鶏場では鶏のふんが毎日出る。「野菜の肥料として鶏ふんを活用することで、美味しい野菜が作れるのでは」と、大根などを植えるようになった。 そのようななか、卵を卸していた百貨店から「店の上得意様のために、世羅の野菜の収穫体験ができないだろうか」と相談を受ける。実施すると思いのほか喜ばれた。その頃「広い畑をそのままにしておくのも」と、一面にひまわりの種をまいてみたところ、見事なひまわり畑ができ、ちょっとした評判になった。 いくつもの出来事が重なったことで、本格的に花の観光農園を始めることになったのだ。 ただ、吉宗さん自身は寮に入って家を離れていたこともあり「父親が楽しそうに何かやってるな」というくらいの認識だった。高校卒業後も地元に帰ろうという思いはなく、いくつかの大学を受けたなか、国立信州大学に進学する。 数学が苦手だったため、文系の学部に進んだ。 「いずれ大阪や東京などの都市部で仕事する」という、ぼんやりとした目標を持っていたという。 大学がある長野県松本市は、目の前にアルプスの山並みが広がる、風光明媚な土地。大学でもバドミントンに明け暮れ、ドライブしながらあちらこちらの温泉をめぐり、充実したキャンパスライフを送っていた。 しかし、大学1年生の冬、父が亡くなった。