「私と高橋ヒロムさんが同意見で、男子選手でリングに立ってほしい相手がいるんですよ」坂井澄江、引退試合でやりたいカードとは?
「ライオネス飛鳥さんから学んだことが大きいと思うんですよ」
元吉本女子プロレスJd所属で、現在はアメリカ在住のフリーランスで活動をしている坂井澄江。今回、スパーク女子プロレス&カラーズ合同興行で一時帰国を果たした。いまは選手としてだけでなく、アメリカ遠征をする日本人選手のサポート役としても活躍中だ。その坂井にアメリカへ行くきっかけや、様々な選手とのかかわりについて聞いてみたインタビューの後編をお届けします。 【動画】日本帰国時にディアナに参戦、井上京子とタッグを結成 ■インタビュー後編 ――そもそもアメリカに行きたいと思った理由は何だったんですか。 坂井 そもそも離せば長くなるんですけど、短くして言いますね。私は全くプロレスファンじゃなくて、井上京子さんの試合を見て、京子さんみたいになりたい、プロレスラーになりたいと思ったみたいに、プロレスに全然興味のない人が私の試合を見て、プロレスラーになりたいと思うレスラーになりたいと思ったんですよ。京子さんって先日も同じリング(6月2日、ディアナ道場)に立たせていただいたんですけど、京子さんはあらゆる面でプロだなと…そういうところをすごく見習いたいなと思ってプロレスラーになったので。 ――それこそ、当時、Jdでタッグを組んだこともありましたね。 坂井 だから当時、たとえばチャンピオンになりたいとかそういう目標もなかったです。プロレスが好きでプロレスラーになったわけではないから、目標としては京子さんみたいなレスラーになりたかった。だから、具体的にどんなレスラーになりたいかというのは、自分で説明するのが難しいくらいに、人から見ても難しかったと思うんです。 ――そこはプロレスファンからプロレスラーになったわけじゃないところが、大きかったんでしょうね。 坂井 それでよく覚えているのが、全然取材も入らないような地方の大会で6人タッグでライオネス飛鳥さんと当たった時にマイクで「坂井はレスラーとして欲がないのか、チャンピオンになりたいとか、そういうものはないのか。いつか私の持ってるベルト(TWF世界女子)に挑戦するくらいになって見ろ!」って言われたんですよ。私はあの当時、飛鳥さんとは試合を何回もやらせていただいたし、当たった回数は一番多かったと思うんですよ。もちろん、ジャガー(横田)さんや、Coogaさんや(白鳥)智香子さん、李(由紀)さん、(ザ・)ブラディーさん、本当にいろんな先輩方からいろんなプロレスを学んだんですけど、やっぱり対戦させていただいた、ライオネス飛鳥さんから学んだことが大きいと思うんですよ。そこで、飛鳥さんからそう言われた時に、ちょっとどうしていいのかわからなくて。 ――キャリアも確か…。 坂井 まだ1年目でしたし。それで控室に戻った時に、なんでだろうと考えて。多分、私が目標なくやっているのはきっとお客さんから見ても、ただやってるだけで、チャンピオンになりたいってみたいなのが見えないことなんだろうって思ったんです。だからそんな中で私の目標はライオネス飛鳥の持っているベルトに挑戦してやるになったんですよ。それで、そこから、飛鳥さんのベルトに挑戦できることになって、後楽園ホールのメインで挑戦できる日(99年3月、後楽園ホール)の前日、テレビ東京かなんかのプロレスラーになりたい子を募集してますみたいな企画のジャガーさんがインタビューで話しておられる後ろで、私たち練習していたんですけど、そこで骨折したんですよ。 ――そんな状況の中での骨折だったんですか。 坂井 はい、でも前にも骨折して試合したことあったんですよ。だからできると思ったんですけど、痛さが前とはだいぶ違って。それで病院行ったら、「はい手術、試合は絶対無理」って言われて。いやー、そのためにここまで頑張ったのに、こんなことってないだろうって、もうプロレスをやめようって思ったんですよ。 ――そこで引退を考えたんですか。そこからどうやって吹っ切れたのですか。 坂井 その当時、知人が3本、プロレスのビデオテープをくれたんですよ。その中の一本がWWF(当時)のビデオで。それはラダーマッチで、ハーディーボーイズ対ダッドリーボーイズ対クリスチャン&エッジの試合で。今まで、そんなの見たことがなかったし、ハルクホーガンとかアブドーラ・ザ・ブッチャーとか知ってましたけど、アメリカにプロレスがあることすら知らなかったし、週プロとか雑誌も自分が出るようになってから見るようになっても、WWFとか興味なかったからそのページは見てなかったし。でもアメリカにプロレスがあるんだ、行ってみたい。これで会社に言って、行かせてもらえなかったら辞めようと思って、これで泉井さん(筆者)に相談して協力してくださってそれで行けたんですよ。 ――懐かしいですね。あの時、僕もアメリカの関係者に紹介したりしていろいろありましたね。当時、プロレスラーとして、アメリカに行くというのは今より全然大変だったから、すごく勇気のいる決断だったと思います。 坂井 はい、それで初めてシュン山口さん(アメリカ在住のフリーカメラマン)の家に泊って、それからは自分でやるようになりました。 ――最初はどんな気苦労がありましたか。 坂井 アメリカに行って思ったのは、日本にいたら海外の人に道を聞かないじゃないですか。「駅どこ?」とか。私全くしゃべれないのに、ボストンへ行ったときに何回も道を聞かれて、「何だ、ここは?」と思ったんですよ。やっぱり日本って島国だから、いろんな考えみたいなものが、アメリカには渦巻いていて。その時、これはむちゃくちゃ自分の人生にとって勉強になるんじゃないかと思ったんですよ。プロレスだけじゃなくて。で、またここに来たいと思って一回日本へ帰って。 ――その結果、当時、所属していたJdを退団することになりましたね。 坂井 アメリカへ行った時も、Jdには…卯木(基雄)代表とか選手の皆さんに感謝してて、日本に帰ってプロレスやっていたんですけど、ある日、事務所で会議があったんですよ。そのときに、自分の中で、「いやー、人生は一回だ」って思って。Jdにいれば、いろんなチャンスをくれるし、レスラーとしては日本でちゃんと生活ができると思ったんですけど、それだけじゃなくて、いろんなことをチャレンジしてみたいと思って、事務所を出て溜池山王の駅まで行ったのに戻ったんです。それで、卯木代表に「すいません、辞めたいんです」って言いました。 ――突然、そう言ったわけですね。 坂井 誰にも相談しませんでした。卯木代表と私ってお互いの考えが似てるのってめっちゃあったんです。卯木代表がもっと考えを通せばJdはもっと良くなっていたと思います。もし自分の考えを通せる団体を作れていたら、ものすごい団体ができたと思います。そののち、(ロッシー)小川さんがいろいろやられましたけど、卯木代表も負けないくらいにすごく魅力的な女子プロレス団体ができていたと思います。その卯木代表には「そやなー、お前もすっごい我慢したもんなー」って言われました。まあでも我慢じゃないですね。感謝しかなかったですけど。今の状況はすごく恵まれていたのに、アメリカに行ったら、誰も何もしてくれない、誰も何も助けてくれない。自分で頑張らないといけない、自分でやらないと何もはじまらないという…でも、そういうのが好きなんですかね。それでアメリカに行こうと決意しましたね。 ――なるほど。プロレスラーになった時から、ここまでいろんな思いがあって、最終的にアメリカへたどり着いたわけですね。 坂井 そういうことがあって今があるので、今新日本プロレスにいる、EVIL選手、高橋ヒロム選手、SHO選手、YOH選手、ジェン・ホワイト、もちろん、多くのみなさんとの出会いに繋がったと思うと感謝しかないです。あとデビッド・フィンレーのことは14歳の時から知っているんですよ。私がアメリカでいろんなことがあった時に、お父さんのデイブ・フィンレーや、家族のみなさんに精神的に助けてくださって。当時、彼は14歳で、妹、弟もまだ小さくて、子どもたちって私のことはわからないし、私もちょっとしかしゃべれない、英語もわかんないけど、本当に優しくしてくれたんですよ。だからデビッド・フィンレーは特別ですね。今の活躍は自分のことのように嬉しいです。彼もイオちゃんと同じ意味で別の意味があるというか…私の中では今も14歳のままですね。