「私たちはもっと戦争に動揺しなければいけない」武田砂鉄が自らの鈍感さを再認識した戦争の記憶とは?
在留邦人の集団脱出を企てたのは…
1945年の敗戦後、朝鮮半島に住んでいた在留邦人は無残な「一本線」によって分断された。北緯38度線より北をソ連軍が、南をアメリカ軍が統治した。南朝鮮にいた邦人の本土への帰還は素早く行われた一方、北朝鮮にいた邦人は難民状態に置かれた。植民地支配から解放された人々がそこに残る邦人に対して酷い仕打ちを繰り返したのは想像に易い。 松村はその地域にいた邦人を南朝鮮に集団で脱出させた。決して政府の要人ではない。むしろ逆だ。「戦前には労働運動に加担したなどとして治安維持法違反で、二度にわたり検挙された元左翼活動家だった」。羅南(ラナム)師管区工兵補充隊の二等兵として戦役に出ていた彼は、やがて、「引き揚げの神様」と呼ばれ、本書のサブタイトルにもあるように6万人もの日本人難民の命を救ったのだ。 敗戦後すぐ、北朝鮮に残った邦人はソ連兵や朝鮮人から迫害された。モノを奪われ、女性は連れ去られた。敗戦によってひっくり返ってしまった立場、残酷さにおののきながらも打開策を探し出せない。 松村は、戦前の左翼活動で築いた関係性を駆使しながら、集団脱出構想を練り上げていく。ソ連軍とも正面から対峙できた。アメリカ軍は、北朝鮮からの脱出者が一気に舞い込めば、コレラなどの感染症が拡大する可能性もあるとして、北緯38度線の越境を禁じる措置を求めてくる。敗戦によって生じた、それぞれの国々の論理は、そこにとどまらざるを得なくなった人間たちを摩耗させる。具体的には死に至らせた。
「引き揚げの神様」の生臭さ
松村は、列車を使った大量輸送、漁船をチャーターした海路での脱出を企てる。確かな人脈、大胆な決断、取り残された人々の窮状を熟知し、いち早く動いた。やがて自らが引き揚げる時に、港に見送りに来た朝鮮共産党咸興(ハムン)市委員会委員の李達進(リダルジン)がこんなはなむけの言葉をかけたという。 「今まで日本人のしたことに悪いこともあった。また朝鮮人のしたことに悪いこともあった。しかし、明日は、お互いに明るく楽しく手を握って進もう」 こういった文言をなかなか素直に受け入れられないのはその後の歴史を知っているからだろうか。そんな純度では歴史は動かない。でも、逆に、その場にあった純度を私は知らなかった。 日本に帰ってからの松村の半生も手短に書かれているが、決して、多くの人に歓迎された人生ではなかった。「引き揚げの神様」は、ようやくたどり着いた本土ではうまくいかなかった。この生臭さが、生きて死ぬという人間のシンプルで重い命題を逆説的に浮き上がらせ、読者に突きつける。 動乱の中にあって、動く道を作るのは誰なのか。暴君なのか、善人なのか、玄人なのか、素人なのか。複雑に絡み合う環境下で、具体的に動いたのは誰なのか。これほど多くの日本人を救った松村の存在がこれまで知られてこなかったのはなぜなのか。いわゆる「善人」ではないからなのか。教科書的な人物ではないからなのか。