アイリスオーヤマの“憲法第1条”「利益を出せる仕組みこそ重要」はなぜ生まれたか
ただし、経営の相談がしたくても、父はもうこの世にいません。もちろん、「こうしたほうがいいよ」とアドバイスをくれる上司もいない。誰にも頼れず、白紙状態で経営者人生を歩き始めました。なぜ、うまくいかないのだろう。どうすればうまくいくのか――。毎日が「なぜ」「どうすれば」の繰り返しでした。 あの頃の会社の強みは何だったのかというと、それは結局、自分の若さでした。 寝ずに働いても、大丈夫な体力がありましたから、昼は営業に出て、夕方から配達をこなし、従業員が帰った夜中に機械を動かす…。その合間に、従業員とご飯を食べながら、語り合う。こんな毎日を過ごしていました。 そして、来る注文は断らない。すべて「イエス」で対応していました。断らずに引き受けていると、「あそこに相談すれば何とかしてくれる」と信用力が得られます。難しい仕事をこなしていると、技術力が高まってきます。 「町工場のおやじで終わりたくない」「下請けではなく、自社ブランドを世に送り出したい」という思いが強くなってきました。そして21歳のときに作ったのが、養殖用のブイ(浮き球)。それまでのブイはガラス製が一般的でしたが、私はブロー成型の技術を生かしてプラスチック製のブイを開発しました。これが「軽くて、壊れにくい」と評判になります。当時はプラスチックの勃興期で、他の素材に代替することで市場が開けました。 ■ オイルショックで倒産の危機 次に開発したのが、田植えで使う育苗箱です。1960年代半ばから普及し始めた田植え機に取り付ける、苗を育てる箱なのですが、こちらはもともと木製が主流でした。しかし、木製では寸法の誤差が生じやすく、耐久性が低いという問題がありました。それをプラスチック製に変えることで、ヒット商品となったのです。 やがて、水産業・農業のメインマーケットである東日本からの受注が増えると、需要に近いところで製品を供給する生産拠点が必要になってきました。そこで、物流網が発達し、降雪が少ない宮城の地を選び、1972年、仙台工場(現・大河原工場)を新設します。19歳で社長に就いたときに年間500万円だった売り上げは、宮城県に進出した27歳のときには7億6000万円にまで伸びていました。 その後の私の経営理論を決定づけるオイルショックが起きたのは、そんなときです。