人間は過去を「思い出せない」…!「語り直し」が「事実」をつくる意外なしくみ
Y2Kという語り直し
過去を過去の人びとや私たちが体験したままに、あたかも記録映像のように思い出すことはできない。なぜなら、現在の私たちは、過去とは決定的に異なったデータ、考え方、言葉をすでに持っているからだ。 例えば、現在「Y2K」がファッションスタイルとして流行している。2000年頃に流行したファッションやカルチャーのリバイバルとも言われているが、それは2000年代のカルチャーそのままの再現ではない。2000年代に起こった様々なカルチャーのいち部分を取り出してリミックスしている。 それに対し、私たちはついつい「2000年代ってこうだったよね」と「思い出して」しまう。けれど、それは「思い出し」ではなく、語り直しなのだ。私たちが「思い出している」と感じているときでさえ、実は「いまの自分」という過去とは別の地点から「語り直して」いる。過去は、現在という新しい視点から叙述しなければ、それを扱うことができないのだ。 私たちは、過去そのものに語らせることはできない。過去はつねに新たな解釈に開かれている。もちろん、過去の人が当時その瞬間に何を考えていたのか、これは過去の事実として存在するだろう。 しかし、それを明らかにするためでさえ、私たちはつねに少ない手がかりから過去を再構成しなければならない。加えて、私たちがすでに新しい経験と概念を手にしてしまっているのだから、過去の人にそのまま乗り移ることもできない。 過去そのものに語らせようとしても、私たちの耳はもう新しくなってしまっている。それゆえ、過去はつねに私たちの解釈を経て、耳を新たにした私たちが聴くことのできる声として、聴こえてくるのだ。 だが、過去は私たちの好きなように「何でもあり」なしかたで解釈できるわけではない。証拠として用いられるものや周りの人々の語りが制約となって、私たちが語れる過去の叙述が変化する。 それゆえ、私たちはより適切な語りを探し求めることができるし、もし人々とともに生きることを目指すのならば、そうしなければならない。 それは証拠と自分の歴史的語りのギャップを測ることであり、周囲の人々の語りとの齟齬について訂正を行っていくことである。過去は私たちがやってきたところであり、私たちが今立って日々営んでいる共通の大地である、時間的な公共物なのだ。 「私たち」がどのような「私たち」なのかは、つねに歴史的過去に基づいて語り合わうことになる。例えば、あなたと親密な誰か(たち)がともに暮らしているとき、あなたとその人は様々な経験を経てきたはずだ。あなたと誰かが難しい選択肢に迫られたとき、その経験があなたたちを支えるだろう。しかし、過去が支えとなるためには、あなたたちの間で共通の過去が共有されていなければならない。 こうした物質的で共同的な作業を私たちはそれほど意識せずに行えている。しかし、意識することで、より適切な過去の叙述が可能になる。 これは歴史の哲学から私たちが学べることだ。