『きみの色』を「3」の物語として読み解く 山田尚子が令和に描く若者の“新しい青春”
「大人」になる時期=「青春」の3角形
そして、このメディア論的な「3」の図式は、さらにもう少し、その先がある。 キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』が面白いのは、単に、19世紀=「1900年」における人間性のパラダイムシフトを、3種類の新たな複製メディアの分割に象徴させただけではないところだ。彼は、この聴覚・視覚・書字という3つの世界を、20世紀に精神分析が理論化した、人間の「こころ」の審級区分に対応させた。 フロイトが20世紀はじめに作り上げた精神分析は、それまで統一的なシステム(例えばデカルトのいう「コギト」)だとみなされてきた人間の精神構造を、ある3つの審級が絡み合った仕組みとして整理し直した。ここでキットラーが直接的に参照しているのは、フランスの精神分析医ジャック・ラカンの提唱した「RSI」という区分である。RSIは、日本語に訳すと、現実界・象徴界・想像界という用語の頭文字をとった略語だ。ここでは細かいことを抜きにしていうと、現実界は音=声の世界を、象徴界は言葉の世界を、想像界はイメージの世界をそれぞれ意味する。つまり、キットラーによれば、現実界がグラモフォン、象徴界がタイプライター、想像界がフィルムにそれぞれぴったり対応するというわけだ。 ところで、この対応関係が何を意味するかというと、この現実界・象徴界・想像界という3区分は、簡単にいうと、私たち人間が「子ども」から「大人」になるまでの「こころ」の発達プロセスにも対応しているということに関わっている。 これも超簡単に説明しよう。ラカンの精神分析理論の図式では、私たち人間は生まれたばかりの時は、世界は母親と一体化した幸福なイメージの世界に包まれている。この最初の世界が想像界だ。ただ、この母子一体のナルシスティックな世界にとどまっていては、いつまで経っても「大人」になれない(通俗的にはこれが、いわゆる「エディプス・コンプレックス」=マザコンの状態)。人間がしっかりした「大人」になるためには、母親から離れ、「言語」という能力を獲得し、一人で「社会」に入っていかなければならない。そうして、ひとは初めて自立する(「大人」になる)。その最初のきっかけを与えるのが、「父」である。そして、「父」の介入によって人間が入るのが象徴界で、これがつまり「言語」と「社会」の世界だ(この象徴界への参入を「去勢」という)。ただ、象徴界はあくまでも言語という記号によってフィルターをかけて見られた世界であり、本当の「現実」そのものではない。こうして本当の「現実」は、現実界として残される。 この、現実界・象徴界・想像界という3つの審級によって生み出され、「私」が「母」から離れ、「父」によって「大人」になるという成長のシステムを、「オイディプスの3角形」(パパ-ママ-ボクの3角形)という。そして、このオイディプスの3角形の物語を、世の中の青春ドラマは繰り返し描き続けてきた。