『きみの色』を「3」の物語として読み解く 山田尚子が令和に描く若者の“新しい青春”
山田尚子の「グラモフォン・フィルム・タイプライター」
そう考えると、実は山田作品についてよく言われる音楽的要素、聴覚的要素への注目というのも、それだけでは不十分に思えてくる。その要素は、作品が示す、より広いメディア論的地平の一部としてみなした方が適切だ。 そして、ここで参照したいのが、ドイツの高名なメディア学者フリードリヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(原書1986年)である。 すでに現代メディア研究の古典となっているこの著作でキットラーは、19世紀に起こったメディア環境の劇的な変化が、旧来の人文学や私たちの人間性のイメージをすっかり書き換えてしまったと説得的に述べている。具体的にそれは、19世紀における蓄音機(グラモフォン)、映画(フィルム)、タイプライターの発明に帰される。彼によれば、19世紀まで文字(エクリチュール)という唯一のメディアに等しく統一されていた人間の認識力は、その後、聴覚(グラモフォン)、視覚(フィルム)、タイプライター(書字)という3つの領域に分解され、――『リズと青い鳥』風にいえば「disjoint」され――モジュール化された。ここにも、「3」のドラマが顔を覗かせている。 以上のキットラー的な見取り図は、確かに、これまでの山田作品、あるいは山田がかつて所属していた京都アニメーションの作品群にも見られるだろう。例えば、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2020年)。ここでは、自動書記(書字メディア)と電話(聴覚メディア)の相剋が主題になっていた。 山田作品にしても、より丁寧に見ると、『リズと青い鳥』では、「リズと青い鳥」は作中で、吹奏楽の楽曲(聴覚)と童話の絵(視覚)、そして岩波文庫と思しき小説(書字)の3つのメディア形態に分割されている。『映画 聲の形』も先ほども述べたように、聴覚=声をめぐる将也と硝子の「2」の物語は、実は絶えず第3項としての結弦のカメラ(視覚メディア)によって対象化されていた。近年の「彼が奏でるふたりの調べ」でも、凛のレコード(聴覚メディア)は、実はタマミの描くイラスト(視覚)にパッケージング(カップリング)されていたし(しかも、凛のバンド名は「LIBRARY’S」!)、『Garden of Remembrance』も、ラブリーサマーちゃんの音楽に合わせて、主人公の女の子が描く絵画が登場していた(絵画は複製技術ではないが、これは『この世界の片隅に』(2016年)や『ルックバック』(2024年)と同じく、「アニメーション」のメタファーとして解釈可能だろう)、というふうに、山田のアニメーションには、音楽/聴覚的要素のみならず、キットラー的なメディア史が折り畳まれている。「2」ではなく、「3」の物語――『きみの色』が浮き彫りにしたのは、おそらくこのことだ。 では、問題の『きみの色』はどうか。厳密にはっきりと分類することは難しいが、強いてやるとすれば、ミュージシャンになりたいと願うルイ、他人の「色」が見えてしまうトツ子、古本屋でアルバイトをしているきみが、それぞれ聴覚、視覚、書字(グラモフォン、フィルム、タイプライター)の機能の3分類を象徴的に担っていると言えるだろう。これが、“『きみの色』のメディア論”である。