『きみの色』を「3」の物語として読み解く 山田尚子が令和に描く若者の“新しい青春”
山田尚子作品のメディア意識
では、『きみの色』におけるこの「3」をどう考えるべきか。 観ている間、いろいろ考えたが、ここではまず補助線として、メディア論の視点を導入したい。優れたアニメーション作品は――というより、実写映画も含めて芸術作品すべてに当てはまるとも言えるが――しばしば自らのメディアを意識化させるような表現や演出を見せることが多い。山田作品も、初期からアニメーションというメディアの特性を浮き彫りにするようなモティーフや表現を作中の端々にこめてきた。 すでに繰り返し指摘されるのが、新海と並び、レンズ効果やフィルム効果を撮影に取り入れる「擬似実写的」な表現である。『きみの色』もまた、先ほどの冒頭のバレエの回想シーンで見られたオールドレンズとフィルムの肌理を再現した表現をはじめ、手前に舐めの構図で物を置きつつ被写界深度を狭め、縦の構図を強調する「実写的」なアングル、基本的にはフィックスで捉え、時にカメラのオートフォーカス機能を思わせる細かい揺れを入れ観客にカメラ視点を意識化させる演出……などなど、いつもの「山田印」の画面が各所で目立っている。 特に印象的だったのが、やはりクライマックスの学園祭でのライブシーンだ。山田はここで、ほかのシーンと同様、演奏するトツ子たちをつねに一定の距離を置いて描く。おそらく一部のアニメーション監督であれば、もっと情動を喚起するように画面を縦横に動かすだろうところを、山田は観客の過度な感情移入をあえて拒むかのように演出する。こうした山田のタッチは、もはや往年の高畑勲にさえ接近していると言ってもいい(高畑もまた、音楽にこだわった監督だった)。これもまた、言うなれば「何らかのメディアを媒介して観ている」、あるいは「撮影している」という意識の表現である。同様のアプローチは、『映画 聲の形』の、硝子の妹・結弦がいつも首に下げ、覗いている一眼レフカメラからのPOVショットですでにはっきり描かれていた。