徳川家を取り上げると禁書扱い...蔦屋重三郎が参入した頃の「江戸の出版事情」
出版統制のはじまり
江戸の出版界が活況を呈しはじめる一方で、幕府は、出版物が社会に及ぼす影響への懸念を次第に隠そうとしなくなる。そして、出版の統制に着手した。言論統制の開始である。 四代将軍・家綱の治世にあたる寛文年間(1661~73年)に、町奉行が板木屋の甚四郎に対して、何であれ疑わしい内容の書物の出版を依頼された場合は、町奉行所に報告して指図を受けるよう申し渡している。幕府が見過ごせない内容の本が、市中に出回っていたことが窺える。 当時は板木を使った木版(もくはん)印刷で、板木を彫ることを生業とする板木屋が出版には欠かせない存在だった。この時、町奉行は板木屋仲間の結成も申し渡した。板木屋を通して出版の統制をはかろうという狙いが読み取れる。仲間の結成を求められた甚四郎は、江戸の板木屋を束ねる棟梁だったと推定されている。 しかし、この申し渡しが守られていないと町奉行はみた。そのため、幕府のことはもちろん、誰かが迷惑するような内容の本の出版などを依頼された場合は町奉行所に申し立て、その指図を受けるよう、板木屋仲間に加えて江戸の町にも触れた。寛文13年(1673)のことである。 寛文期の出版取締令を皮切りに同様の法令が繰り返し出されたが、特に幕府が厳しい目を向けたのは、時事ネタを取り上げる出版物だった。瓦版などはその象徴だ。次の五代将軍・綱吉の時代には悪名高い「生類憐みの令」が出され、まさに時事ネタとして取り上げるのに格好の材料となる。 時事問題が取り上げられると、為政者への論評に発展することは避けられなかった。つまりは政治批判につながる可能性が高い。その方が売れ筋になるからである。 批判の矛先は最終的には徳川家や将軍に向かう恐れがあった。それを放置しては将軍の権威も失墜するため、幕府は出版メディアへの統制をさらに強化する。将軍の権威を損なうネガティブな情報は徹底的に排除し、将軍の話題がタブー視される社会環境を整えることに躍起となった。 この時代、将軍はいうに及ばず、徳川家に関して出版物で取り上げることは、自分の身を危険に晒すことを意味した。幕末に江戸の木綿問屋の家に生まれ、近代日本の紡績業界に大きな足跡を残した鹿島萬兵衛は、徳川家に関する出版事情について、次のように回顧している。 旧幕時代の書物には、政治上のことは勿論、徳川家に係ることは些細のことでも記載せず、うつかりやると軽くて江戸構へ、少し重く取らるる時は遠島などといふ目に逢ふを恐れて、『江戸名所図会』その他の書物に記載てあるべきと思ふものもさらに記さず。 (鹿島萬兵衛『江戸の夕栄』) 政治上の事柄はもちろん、徳川家に関する事柄は些細なことであっても出版物には取り上げなかった。うっかり取り上げると、作者や版元は町奉行所から呼び出され、軽くて江戸からの追放処分。奉行所が少しでも重大案件とみなすと、遠島に処せられる可能性があった。よって、『江戸名所図会』をはじめ、徳川家に関する事柄を載せていても不思議ではない書物にも、それらは一切掲載されなかったという。 『江戸名所図会』とは、江戸および近郊の観光名所などを、挿絵と簡単な文章で紹介したガイドブックであった。江戸には徳川家ゆかりの観光名所が多く、それを売りにして、なかでも寺社は集客合戦に鎬を削った。そのため、こうした由緒は『江戸名所図会』で触れられても何の不思議もなかったが、幕府からの処罰を恐れて、その記述がなかったのである。 つまり、版元側が自主規制していたことがわかる。江戸の出版メディアが幕府の厳しい監視下に置かれていたことを示す、象徴的な事例であった。 幕府による出版統制の画期となったのは、大岡忠相が町奉行を務めた享保改革の時代である。享保7年(1722)11月に出された出版取締令では、次の5項目の厳守が掲げられた。 ①新刊の書物では通説はともかく、異説などを加えてはいけない ②既刊の好色本は、風俗に宜しくないのでおいおい絶版とする ③他人の家系などに異説を唱え、新刊の書物として刊行してはいけない。子孫より訴えがあれば厳重に吟味する ④どんな書物でも、以後は作者と版元の実名を奥書に記すこと ⑤権現様(家康公)はもちろん、徳川家に関する書物を以後出版してはいけない。拠無い理由があれば、奉行所に届け出て指図を受けること 以後は、この出版取締令に基づいて新刊本の出版可否が判断されたが、幕府が直接判断したのではない。前年の享保6年8月に同業者組合として公認した江戸の書物問屋仲間に、その業務を委託して、先の5項目に違反していないかがチェックされた。江戸の出版界を牛耳る書物問屋をして、幕府の忌諱に触れる内容を出版・流通させないよう目論んだのである(今田洋三『江戸の本屋さん』)。 こうして、徳川家を取り上げた書物などは禁書扱いとされた。出版できない内容は写本という形で一般に流布したが、タブー視されたがゆえに、幕政や徳川家への関心がいやが上にも高まるという皮肉な結果に終わる。 しかし、享保改革の段階では、地本問屋に対して問屋仲間の結成を命じることはなかった。そのため、地本問屋が扱う出版物はいわば野放し状態となり、大衆向けの地本の出版は一層盛んとなる。そうしたなか、江戸の出版界に登場したのが重三郎なのである。
安藤優一郎(歴史家)