新潟・湯沢 フジロックフェスティバル25年の歩み 音楽フェスで築くまちづくりの今後
『平成のヒット曲』(新潮新書)、『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)などの著書があり、幅広く国内外の音楽シーンを解説する音楽ジャーナリストの柴那典(とものり)さん(47)は、当時音楽好きの京大生として会場に足を運んでいた。 「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(以下、レイジ)など海外の有名なアクトが一堂に会するイベントはこれまでなかったので、とても高揚して行ったことを覚えています」 しかし、〝伝説のライブ〟を見た満足感よりも這這(ほうほう)の体(てい)で逃げるように会場を後にした柴さんには、「また来年もここで会いましょうとは思えなかった」という苦い記憶として刻み込まれてしまった。 ◇スキーバブルの〝遺産〟を活路に 翌98年は会場を東京・豊洲に「緊急避難的に移して」(石飛さん)開催された。現在の豊洲市場がある場所である。野外ではあるものの、「自然との共生」とはかけ離れたものとなった。 2年連続で悔しい思いをしてきたSMASHに新潟・湯沢での開催の提案が持ち込まれた。 「富士天神山スキー場でやる前、実は全国100カ所くらい視察していた場所の中に苗場もありました。しかし、会場にするには狭くて不適切だと判断していた」(石飛さん) つまり、当初は乗り気ではなかった提案だった。湯沢町の苗場プリンスホテル敷地内にあるスキー場のコースではフェス会場にならないと見ていたのだ。しかし、ホテルの敷地はそれだけではなかった。ヘリポートや駐車場、ゴルフ場、テニスコートなど広大な敷地があったのである。 「私たちにとって盲点でした。〝スキーバブルの負の遺産〟が目の前に広がっていたのです。それらを改良、整備してもらえればフェス会場にできると提案し、湯沢開催に至ったのです」(同) 一方、人口9000人ほど(当時)の町に突如浮上した音楽フェスの開催を、地元の人たちはどう受け入れたのだろうか。湯沢町役場の南雲剛・子育て教育部長(59)は通算21年間、観光課に所属していた〝観光のエキスパート〟で、99年の苗場初開催時も観光課に在籍していた。苗場プリンスホテルとSMASHとの協議がまとまった99年、地元町内会や商工関係者らを集め、SMASHによる説明会を町役場で開催。その場に南雲さんも出席したという。その時の様子を南雲さんはこう記憶していた。