東映「名物社長」の命令で投手から“俳優”に転身 俳優・八名信夫さん(89)が明かすプロ野球選手時代の秘話
現役引退、そして予期せぬ俳優転向命令
八名が入団した当時のフライヤーズは岩本義行が選手兼任監督を務めていた。明治大学の先輩である岩本の思い出を尋ねると、その口元から白い歯がこぼれた。 「なかなか点数が入らない場面で、“仕方ないな、オレが打ってやる”って、自ら代打で出て、あっけなく三振。ベンチに戻ってきたら、“アイツはいいピッチャーだ”って、平然としている(笑)。またあるときは、“オレが守る”とマスクとレガースをつけてキャッチャーをやるんだけど、肩が弱いから盗塁ばかりされる。相手ファンは大喜びで大喝采。それでも本人は、“オレの人気もまんざらではないな”とご満悦なんだよね」 プロ1年目となる56年8月22日、平和台球場で行われた西鉄ライオンズ戦では、中西太から特大ホームランを浴びた。わずか3年に終わったプロ生活において、強く記憶に残っている場面の一つだ。 「ジャンプすれば捕れそうなライナーなんだけど、打球はそのままスタンドに飛び込んだ。打球の行方なんか見なくても、観客の大歓声を聞いていればわかるよ。このときは岩本さんにものすごく怒られたね」 プロ1年目には9試合に登板し、2年目には4試合、そして3年目はわずか2試合の登板に終わった。3年目の58年8月10日、日生球場で行われた近鉄パールス戦において、八名は腰骨を骨折してしまう。これが、野球人生終焉のきっかけとなった。 「マウンドに足をかけて投げ始めるんだけど、スパイクの刃が、ひびが入っていたピッチャープレートに突き刺さって抜けないんだ。右足で蹴り上げることができないまま、後ろから引っ張られるような不自然な形で倒れてしまった。それで終わりだよ。もう投げることができないんだから」 この年のオフ、八名は戦力外通告を受けた。実家に戻って、父が営んでいた映画館を引き継ぐことも考えた。第二の人生について思いを巡らせていたとき、球団代表の石原春夫に呼び出された。 「石原さんから、“野球はやめて、映画に行け”と言われたんだ。それで、事務員として働くつもりで本社に行くと、“いや、お前が来るのはここじゃない。撮影所だよ”と言われてね。事務員じゃなくて、俳優として生きろという話だったんだ。“俳優? とんでもねぇよ”って、そんな気持ちだったね」 それは、東映の名物社長であり、球団オーナーでもあった大川博の命令だった。プロ野球選手から俳優への異色の転身。当の八名はまったく乗り気ではなかった。しかし、この瞬間から、65年以上にも及ぶ、長い長い役者人生が始まることになる――。 (文中敬称略) *第2回記事では、俳優として東映に入社し、悪役で生きて行こうと目覚めたきっかけ。「悪役商会」立ち上げの秘話など。
長谷川 晶一 1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。 デイリー新潮編集部
新潮社